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太田述正コラム#6621(2013.12.8)
<日本の暴力団(その3)>(2014.3.25公開)

 「組員が組の中で・・・出世をする・・・ルートは二つあります。
 一つは組と組とが対立し、抗争する場合、組の威信を背負って、相手側の幹部や組員を殺傷することです。・・・
 しかし、・・・近年はめっきり抗争の数が減っていますから、こうした暴力ルートで出世することは・・・難しくなっています。
 もう一つの出世の方法は、うまいシノギを見つけてお金をたくさん稼ぎ、せっせと自分の親分の許に運んでお上手することです。・・・
 その場合・・・<目端の利く人間は、>自分の親分の親分にもお金を運び、目を掛けてもらい、可愛がってもら<います。>・・・
 <そうすれば、>やがてはその組員を引き立て、組員の親分と同格のレベルまで抜擢してくれることがあります。・・・
 こうやって次々と上のピラミッドまで階段を上っていけば、やがては、たとえばの話、山口組本家に属する直系組長にも、若頭補佐にもなれるわけです。・・・
 この社会における地位も支配も、その最後の決定要素は暴力で<す。>・・・
 しかし、暴力は高くつきます。警察の捜査が入り、自分が逮捕されるか、逃亡しなければならなくなるときもあります。傷つけた相手に見舞金や慰謝料を払う必要が生じることもあるでしょう。この意味で、暴力を振るうのはバカなことなのですが、組員はバカを承知で暴力に突き進む性格を持っていないと、組員をやっていられないし、出世できないのかもしれません。
 また、一度暴力を振るっておくと、あの組は何をするか分からない恐ろしい組だと一目置かれて、その後は「殺るぞ」と脅すだけで目的を達成することがあります。・・・
 しかし、・・・現在では、大きな暴力団は他の組を相手取った抗争をしないようにしているばかりか、実質的に組員の喧嘩も禁じています。というのは、民法や暴力団対策法で定められた組長に対する「使用者責任」を法的に追及されることを恐れているからです。・・・
 組員の多くは身体に刺青<(注5)>を入れています。・・・

 (注5)「縄文・弥生期の日本は、世界でも有数の入れ墨文化を有していたと考えられている。・・・入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および513年の百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられ<ている。>・・・現代に続く日本の華美な入れ墨文化は、江戸時代中期に確立された。江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始め、犯罪者が多数発生するようになったため、犯罪の抑止を図る目的で町人に対する入墨刑が用いられ、容易には消えない入墨の特性が一般的に再認識されたことで、その身体装飾への応用が復活した。・・・
 米国では近年18 - 29歳の青年層の間で入れ墨を入れる者が急増し、同年齢層の36%が入れ墨を入れている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E3%82%8C%E5%A2%A8

 入れることで周りの人に恐怖感を与える威嚇の狙い、あるいは立派なものを入れれば仲間うちで幅が利くといった意味合いがある・・・と考えられます・・・
 指詰めは・・・ほとんどが謝罪の気持ちを表す意味で行われます。・・・
 <これ>は江戸時代、遊女が行ったことに発しているそうです。客に自分の愛情と誠意を示す(心中立てといいます)ため・・・<の>最大のものが断指だったそうです。・・・
 日本の暴力団は「反社会的集団」であると同時に「半社会的存在」でもあったわけです。以前は半分ほど社会に認められていました。その点、米マフィアは非公然そのもの<であり、>・・・服従と沈黙の掟・・・を後生大事に守っている<のです。>・・・
 <また、>日本の暴力団は庶民の出身ですが、シチリアマフィアは中間的な寄生階級の出であり、庶民を敵視<しています。>・・・
 <だから、>暴力団員は・・・マフィアに比べれば口はかなり軽<く、>・・・平気で外部に向かっても、自分の親分の悪口を言います。」(76〜81、83、86〜87、101〜103)
 「「暴力団対策法」(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)・・・<は>1992年3月から施行されました。・・・
 <この法律>は、警察と暴力団が共存共栄を図る法律ではなかったのか、と疑われています。・・・
 「暴力団は違法の存在だ」と頭から決めつけなかった<からです。>・・・
 <他方、例えば>イタリアではマフィア対策統合法<でマフィアそのものが禁止されています。>・・・<そういう背景もあり、日本の暴力団員の人数は減っていませんが、>イタリアでもアメリカでもマフィアの人数は減っています。・・・
 組織犯罪集団の存在を認める法律を持っているのは、世界の中で日本だけなのです。・・・
 江戸時代、町奉行所などは与力、同心の下に非公認で「岡っ引き」<(注6)>を使っていました。・・・犯罪者の罪を許し、犯罪情報を嗅ぎ回って注進させる手先に使っていたのです。「二足のわらじを履く」といって、博徒やテキ屋の親分を岡っ引きに使うこともありました。

 (注6)「正式には江戸では御用聞き(ごようきき)、関八州では目明かし(めあかし)、関西では手先(てさき)あるいは口問い(くちとい)と呼び、各地方で呼び方は異なっていた。岡とは脇の立場の人間であることを表し、公儀の役人(同心)ではない脇の人間が拘引することから岡っ引と呼ばれた。目明しという呼び方は、仕事が密告や密偵的な行為だったことによる。また、岡っ引は配下に下っ引と呼ばれる手下を持つことも多かった。・・・起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った「放免」である。武士は市中の落伍者・渡世人の生活環境・犯罪実態について不分明なため、捜査の必要上、犯罪者の一部を体制側に取り込み情報収集のため使役する必要があった。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた落伍者・犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ捜査自体が困難だったのである。・・・江戸の場合<、>南町・北町奉行所には与力が各25騎、同心が各100人配置されていたが、警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30人にも満たず、人口100万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引を雇っていた。岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという。奉行所の正規の構成員ではなく、俸給も任命もなかったが、同心から手札(小遣い)を得ていた。同心の屋敷には岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。ただし、岡っ引を専業として生計を立てた事例は無く、女房に小間物屋や汁粉屋をやらせるなど家業を持った。・・・岡っ引は・・・奉行所からの要請<を受けた場合、そ>の度に奉行所に十手を取りに行った」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E3%81%A3%E5%BC%95

→「落伍者・犯罪者の共同体」云々という部分もあったでしょうが、縄文モードの江戸時代において、権限をどんどん「下」に委任するところの、プロト日本型政治経済体制が構築され、政治・行政(含治安)についても、実際には一般住民(農工商)が自治的にその末端を担ったのであり、治安に関して、官と民の接点の役割を果たしたのが岡っ引きであった、というのが私の認識です。
 こうすることで、官(公儀)は、治安に少人数の役人(武士)だけであたらせることができたわけです。
 このような伝統があるので、現在においても、日本では、人口当たり警察官数、ひいては公務員数が少ない
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/5196.html
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/5196.html
のです。(太田)

 警察はこうした江戸時代の習慣を復活させたいのではないかと疑えます。そうでなくても警察と暴力団との「腐れ縁」<が>戦前から戦後にかけて一貫して続いてきた歴史があるのです。・・・
 <しかし、これに対して、>暴力団は「三ない主義」<で対抗しています。>警察官には言わない、警察官とは会わない、警察官は組事務所に入れないという「三ない」です。
 暴力団対策法は、たしかに暴力団の存在を認めていますが、同時に暴力団を「反社会的集団」として敵視する法律でもある<からです。>・・・
 ですから、捜査員の中にも暴力団対策法は失敗だったという声があります。・・・
 ヤクザの親分に十手、取り縄を許した<という>・・・日本の伝統を暴力団対策法が壊した<と。>・・・

→「取調の可視化は、おとり捜査、司法取引とバーター」という発想が警察内部にあるのは間違いなさそうです
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-367.html
が、暴力団の違法化についても、おとり捜査、司法取引、或いは通信傍受の拡大、更には、私としては初めて言及しますが、(米国の映画でしばしば目にする)証人保護プログラムの導入とバーターでしか、認められない、ということではないでしょうか。(太田)

 <ところで、>暴力団は・・・政・官・財で権力を握っている人たちが暴力団を便利に使っているから、今もって存続しているのでしょうか。
 <確かに、>暴力団と<興行(注7)に携わる>芸能人の交際は双方にメリットもあり、跡を絶ちません。

 (注7)「狭い区域にたくさんの観衆を集めるという構造上の特質から、暴力による妨害に弱いため、古くから不良を手なずける意味もあって、ヤクザ者・暴力団との腐れ縁があり、またヤクザ自身が興行を手がけることも多かった。山口組の田岡一雄は昭和20年代の雑誌には「売り出し中の興行師」などと紹介されている。かつて存在した日本の総合格闘技興行「PRIDE」は、2006年に主催会社と暴力団との関係を「週刊現代」に報じられ、イベントが消滅した。プロボクシング団体「日本IBF」の初代アジアコミッショナーは、暴力団「柳川組」初代組長の柳川次郎であり、日本IBFのボクシング興行に関わっていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E8%A1%8C

 <しかし、島田紳助が引退に追い込まれたケースからも明らかなように、芸能界においてすら、状況は変わりつつあります。>・・・
 <いずれにせよ、>暴力団は・・・<基本的に>政治や経済を動かし<たことなどありません。>・・・
 <現に、>暴力団に有利になるような法令の制定や施行、法の運用は<少なくとも>近年はありません。
 逆に1999年には「組織犯罪処罰法」までできています。・・・
 しかし、海外のメディアやジャーナリストは、好んで暴力団が日本を動かしているような報道をします。それはそう見た方が彼らにとって面白いから、としか考えようがありません。 」(127〜129、131〜135、137〜138)

→「自由民主党の総裁選に絡み右翼団体日本皇民党や安倍派、中曽根派から攻撃を受けていた事件(皇民党事件)で竹下政権が東京佐川急便社長の渡辺広康を介し稲川会の石井隆匡会長に仲介を依頼、事件の解決を図った。<また、>小泉純一郎元首相の選挙対策本部長である竹内清(前神奈川県議会議長)は稲川会横須賀一家の系列組員であり、石井隆匡と非常に親しく、上下関係の厳しいヤクザの世界にあって葬儀で最初に焼香するなど、肩書きこそ堅気という事になってはいたが非常に密接な関係であった<ほか、>息子の小泉進次郎と共に写っている写真が掲載されるなど、小泉父子の選挙区であり、横須賀一家の本拠地でもある神奈川県横須賀市では、両者の結びつきはきわめて強い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%B7%9D%E4%BC%9A 前掲
といった「事実」を踏まえれば、具体的反論抜きで溝口がこう一口で片付けるのはいかがなものかと思います。(太田)

(続く)

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