太田述正コラム#6613(2013.12.4)
<台湾史(その20)>(2014.3.21公開)

 「1986年・・・6月には<米>下院のアジア太平洋小委員会と人権小委員会が、「台湾民主化決議案」を可決し、国民党政権に対して、一、新政党結成の容認、二、検閲制度の廃止と言論、集会、結社の自由の保障、三、完全な議会制民主主義の実現、を要求した。・・・そしてついに9月28日、台北の丸山大飯店に135名の発起人が集まり、戦後はじめての野党「民主進歩党」(以下「民進党」とする)が結成されたのである。・・・
 国民党政権<は、>・・・「民進党は『不法』組織ではあるが、『非合法』組織とは断定しない」とみずからを納得させるような法解釈を下して、野党の結成を認めた。民進党は・・・1986年11月10日に、第一回の党員代表大会を開き、党綱領や規約を採択した。そのなかで、一、戒厳令の解除、二、国会の全面改選、三、憲法を形骸化させている「臨時条款」の廃止、四、台湾の将来を住民自決、つまり台湾住民による自由、自主、公平な方式で決定する、五、国民党の軍隊から国家の軍隊に変える、などを掲げている。・・・
 この頃、台湾でもっとも痛烈に国民党政権を批判する論調を掲げていた週刊雑誌に「自由時代」がある。「自由時代」は、台湾・・・生まれの外省人2世で、強烈な台湾独立の推進者であり、100%の言論の自由の獲得をめざしていた鄭南榕<(注49)>が主宰する政論誌である。

 (注49)1947〜1989年。「[国立台湾大学で]哲学を学び、 論理学を専攻した。・・・必修科目であった「国父(孫文)思想」の授業を拒んだ為、折角の大学卒業証書をふいにした。・・・率先して米国で設立された台湾民主党に加入し、台湾島内の第一号党員となった・・・1989年1月27日から自らを幽閉し、・・・1989年4月7日の明け方国民党は多数の軍勢で雑誌社を奇襲攻撃した<が、その時、焼身自殺を遂げた。>」
http://www.nylon.org.tw/index.php?option=com_content&view=article&id=220
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%8D%97%E6%A6%95 ([]内)

 毎号のように発禁処分を受け<たが、>・・・鄭南榕はその雑誌で最大のタブーに挑戦、海外の台湾独立運動の状況を紹介するばかりでなく、社説で台湾独立を主張した。また、1987年4月18日に台北市で行なわれた集会の席上、鄭南榕は「私は台湾の独立を主張する」と数千の聴衆を前に熱弁を奮い、公然と台湾独立の主張を表明した最初の人となった。戒厳令が解除される前のことであり、死を覚悟しての行動であった。そして鄭南榕は1989年1月20日に、反乱罪容疑で台湾高等検察庁に召喚されたが出頭を拒否し、『自由時代』の編集長室に籠城して抵抗をつづけ、4月7日午前に強制連行を拒んで焼身自殺をとげた。・・・
 内外の台湾人の民主化運動と、米国議会と政府の圧力のもとで、国民党政権はついに1987年7月15日、38年間も施行しつづけてきた戒厳令を解除し、代わりに「動員戡乱時期国家安全法」(以下「国家安全法」とする)を施行した。
 国家安全法の第2条には「人民の集会と結社は、憲法に違反し、あるいは共産主義を主張し、または国土の分裂を主張してはならない」と定めている。憲法は「臨時条款」で棚上げの状態にあり、台湾人には共産主義者は皆無にひとしいことから、この第2条の眼目は明らかに「国家の分裂」、つまり台湾独立の主張を禁ずることにある。・・・」(212〜215)

→余りにも有名な出来事が紹介されていますが、外省人2世の鄭南榕が、自分の一族郎党の特権的立場に反する言動を行い、しかもそのために殉じるという、まことにもって漢人らしからぬ人間へと人となったのは、日本の植民地であった台湾の本省人の間の自由民主主義的風潮に感化されたからと考えるのが自然でしょう。
 感化されたと考えることによって、初めて、自分の属する一族郎党、ひいては外省人の腐敗と専制志向、そして、この外省人が台湾の政治経済を支配していることへの慚愧の思いが募って、本省人以上に、彼の言動が先鋭化して行った、と忖度することができる、というものです。
 しかし、感化された外省人は鄭南榕だけではなかったはずです。
 第二代(台湾)国民党主席となった蒋経国も、程度はともあれ、感化されたと考えないと、匪賊の頭目の二代目であった彼が、しかも、スターリン主義をソ連で叩きこまれた彼が、「李登輝をはじめとする本省人の登用」を行ったり、「質素な私生活を送り国民に対しても気さくに接したこと」、更には、「党大会や国民向けの声明で・・・蒋一族の世襲の否定や、「私も台湾人である」と宣言するなど」したこと、は到底説明できないでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E7%B5%8C%E5%9B%BD (「」内)(太田)

 「1988年・・・1月13日午後、最高権力者の蒋経国総統・国民党主席の突然の死が報じられた。そして憲法の規定にしたがい、副総統の李登輝が総統に昇格した。これは台湾史上はじめて、台湾人が国家元首の地位についたもので、多くの台湾人は無条件に李登輝の総統就任を歓迎するとともに、その施政に期待を抱いた。・・・
 蒋経国は李登輝を副総統に登用したものの、後継者とまでは考えていなかった。台湾人口の86%を占める台湾人に対する妥協の必要から、副総統に台湾人を起用したもので、いわば「お飾り」の副総統であった。李登輝が起用されたのは、みずからも認めるように「真面目で誠実」な人柄を認められてのことであったが、野心家ではないとして「安全度」が買われてのことでもある。・・・蒋介石の未亡人である宋美齢と、外省人の長老を中心とした党内勢力は、李登輝の総統昇格はやむを得ないとしても、党主席の就任には反対であった。そして蒋介石死後の厳家淦<(注50)>と蒋経国党主席のように、「総統と党主席の分離」を主張し、李登輝を「ロボット総統」にしようとした。・・・

 (注50)1905〜93年。江蘇省生まれ。上海の聖約翰(セント・ジョン)大学卒。「1963年・・・、 行政院院長に就任。1966年には副総統も兼任した。1975年・・・に蒋介石が任期中に病死したため、・・・憲法の規定に沿い総統に就任。1978年・・・の任期終了まで総統を務めた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%AE%B6%E6%B7%A6

→蒋経国の李登輝登用の真意については、伊藤が根拠を示していないこともあり、私自身は、後継者としての登用であった、と考えています。(太田)

 <しかし、結局、>国民党は1988年7月の第13回党員代表大会で、李登輝を党主席に選出した。・・・
 李登輝は、1923年1月、日本統治下の台湾・・・<で>生まれ<、>旧制台北高等学校を経て、京都帝国大学農学部農業経済学科に在学中に学徒出陣。戦後は台湾大学に復学して1948年に卒業、1952年から2年間、米国アイオワ州立大学に留学し、農学修士号を取得。さらに1965年から同じく米国のコーネル大学に留学し、「台湾における農業と工業間の資本の流れ」と題する論文で、農学博士号を取得した。この論文は1968年度の全米最優秀農業経済学会賞を受け、李登輝の政治家への道の布石となっている。帰国後の1971年に蒋経国に台湾農業問題を報告し、深い印象を残したことが契機となって国民党への入党となり、翌1972年5月に行政院の政務委員(国務大臣に相当)に起用され、・・・1978年6月には台北市長に任じられ、翌年には国民党中央常務委員に就任した。1981年12月には台湾省政府主席となり、3年後の84年3月に・・・蒋経国のもとで、副総統に選出された。・・・しかし、このような順調な人生の陰で、李登輝は1983年に一人息子(33歳)を病魔に奪われたが、この残酷な運命を受け容れ、クリスチャンとしての道を深めて行く。・・・
 李登輝は小地主の家に生まれたためか、一貫して農業経済学を専攻しており、農業に強い関心と問題意識を抱いていたことが窺える。当時の台湾留学生の多くが、東京帝国大学をめざすなかで、あえて自由主義の学風の聞こえ高い、京都帝国大学農学部を選んだところにも、若かりし頃の李登輝の思想傾向が垣間見える。」(216〜219)

→伊藤のここの記述は、いささか李登輝を美化し過ぎているのではないでしょうか。
 李登輝が京大で農業経済学を専攻したのは、当時の日本の経済学はマルクス経済学中心であり、「高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義の唯物史観の影響を受けたこと」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BB%E8%BC%9D
と、東大よりは京大、そして、経済学部よりは農学部農業経済学科の方が入学が容易であったからであると想像されます。
 なお、李登輝が京大に入学した同年10月1日に、丁度、学徒出陣制度が導入され、理工系学生は免除されたのに、農学部の農業経済学科と農学科は文系とみなされた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%87%BA%E9%99%A3
ため、その後、彼は学徒出陣をすることになったものです。(但し、日本の内地勤務でした。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BB%E8%BC%9D 前掲
 しかし、結果的に、この専攻を選んだことが、李登輝の、台湾における政治家への道を開いたのであり、若い時に何を(どこで)学んだかがいかに重要かを改めて痛感させられます。
 なお、李登輝がキリスト教徒になったことについても、私は、既に政治家になっていた彼が、台湾にとっての米国の重要性に鑑み、また、蒋介石夫妻の顰に倣って、一人息子の死を契機に、米国に覚えが目出度い、入信を果たした、という部分もあったのではないかと想像しています。(太田)

(続く)