太田述正コラム#6603(2013.11.29)
<台湾史(その15)>(2014.3.16公開)

 「この頃の中国の悪性インフレは、交易と通貨の交換レートを介して台湾にも波及し、台湾経済を混乱させ、市民生活を脅かした。占領して6ヵ月足らずの1946年早々には、台湾経済は破局的な状況に陥っていたのである。・・・
 台湾<には、>・・・終戦当時でも16万余の日本軍の、2年間の食糧備蓄をまかなって余りあった。それが1945年11月末には、全台湾規模で深刻な米不足の状況となっていた。これは・・・台湾の米を大量に中国に移出したからで、米不足は米の価格を吊り上げた。終戦時の台北の米の価格<は、>・・・11月には60倍・・・にも跳ね上がっている。・・・
 経済状況の悪化に加えて、失業者の急増による社会的な混乱も深刻化しつつあった。日本の敗戦で大量の留学生が日本から戻り、前線からも軍人や軍属、軍夫が帰還したが、これらの人員を受け容れる職場はなかった。そればかりか戦時中の爆撃で操業不能となった工場もあり、さらには接収しても順調に稼働しない工場もあり、わけても国民党政権の意図的な台湾人排除により、就労機会は極端に減少し、30万人以上もの台湾人失業者が巷に溢れた。治安も急速に悪化し<た。>・・・
 台湾人は・・・「犬(日本人)去りて豚(中国人)来たる」とまで嘆くようになった。要するに、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いというのであるが、そこには台湾人は日本人や中国人とは違った存在であるという、潜在的な意識があることに注目したい。・・・
 台湾人の不満が鬱積していた1947年2月27日の夕暮れどき、台北市の・・・台湾人商店街・・・で起きた、密輸タバコ売りの取締まりに端を発したいざこざは、たちまちにして全台湾規模の「二・二八事件」に発展した。・・・
 長官公署は総督府同様にタバコを専売局の専売品としており、重要な財源であった。しかし、長官公署の高官やその関係者は、大量のタバコを密輸して稼いでいた。・・・
 取締員・・・(広東人)・・・6名が、中年の台湾人寡婦・・・から、商品の密輸タバコの没収だけでなく所持金までも取り上げたため、<彼女>は跪いて現金の返却を哀願したが、返却されないばかりか銃で頭部を殴打され、血を流して倒れた。憤慨した群衆が、一斉に取締員らを攻撃したため、取締員らは逃げながら発砲、傍観の一市民にあたって即死させた。それがいっそう群衆を刺激することになり、ただちに近くの警察局と憲兵隊を包囲して、逃げ込んだ取締員らの引き渡しを要求したが拒否された。
 一夜明けた翌28日午前、怒った群衆は専売局台北分局に抗議し、分局長と三名の職員を殴打して、書類や器具を路上に放り出して燃やした。午後、群衆は長官公署前広場に集まり、抗議のデモを行なうと同時に政治改革を要求した。ところが長官公署の屋上から、憲兵が機関銃で群衆を掃射し、数十人の死傷者が出る惨事となった。ここにいたり事態は緊迫し、台北市の商店は軒並み閉店、工場は操業を停止、学生も授業をボイコットし、万余の市民が抗議の輪に加わり、市中は騒然となった。警備総司令部は台北市に戒厳令を布告したが、市民は放送局を占拠して、全台湾に向けて事件の発生を知らせた。3月1日には事件は台湾全土に波及し、大都市だけでなく一部の地方でも騒動が起こり、憤激した市民が官庁や警察局を襲撃し外省人を殴打して、1年余の国民党政権に対する不満をぶつけた。軍や憲兵隊、警察は発砲して鎮圧をめざしたが、収拾するどころか事態はますます悪化して行った。・・・
 台北市では3月1日に、民意代表からなる・・・事件処理調査委員会・・・が結成され、代表を陳儀行政長官のもとに派遣して<交渉を始めた。>・・・
 しかし、・・・8日午後に国民党政権の増援部隊が基隆港と高雄港から上陸し<た>・・・。・・・
 台湾人に対する無差別の殺戮は基隆と高雄に始まり、約2週間で台湾全土におよび、台湾人の抵抗は完全に鎮圧された。殺戮には機関銃が使用されたほか、鼻や耳を削ぎ落とした上に、掌に針金を通して数人一組に繋いだり、麻袋に詰めて海や川に投げ捨てるなど、きわめて残虐なものであった。逮捕されても処刑の前に市中を引き回され、処刑後は数日間にわたり、市民へのみせしめとして放置された人も多々あった。・・・
 長官公署は意図的に、日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清<し始めた。>当時の台湾の知識人を代表する、大学教授・・・弁護士・・・医師<らが>・・・このとき悲劇に遭った。・・・
 台湾人の悲劇は、日本統治下で体得した「法治国家」「法の支配」の精神を、国民党政権にも期待し、幻想を抱いたことである。・・・
 米国のスチュアート中国駐在大使は4月18日、蒋介石に<対し、>・・・台湾における非人道的な暴行に厳しく抗議した。・・・国共内戦で敗色を強めて<いた>・・・蒋介石は・・・同月22日に陳儀<(注37)>行政長官を免職し、5月1日に南京に召還した。・・・<彼は、>1950年2月に、中国共産党に通じた容疑で逮捕され、台湾での軍事裁判で「反乱罪」となり、6月18日に処刑された。・・・

 (注37)1883〜1950年。日本の陸士卒。帰国後、今度は日本の陸軍大学に留学している。「1935年、日本政府は台湾にて「始政四十周年紀念台湾博覧会」を開催した。陳儀は政府より台湾出張を命じられこれを視察、日本統治の下での台湾の急速な発展と、中国大陸の長期にわたる戦乱に起因する停滞との差異を目の当たりにしたこの出張は陳儀のその後に大きな影響を与える。陳儀はその後台湾に視察団を派遣し、1937年に『台湾考察報告』を出版し、福建経済のモデルとして台湾を上げている。・・・日本の敗戦後、1945年8月29日、陳儀は台湾省行政長官、後に警備総司令兼任に任命された。・・・日本留学の経験<等>から適当な人物とみなされたとされる。・・・当時の台湾<の>本省人<は、>・・・日本統治下の教育の影響で中国語の理解力不足があり、また共通語とされた北京官話が苦手であった。そのため外省人を公務員として登用したが優秀な人材は国共内戦の影響により大陸に集中し、劣悪な人材に限定されてしまったためその能力や品行に少なからず問題があり、住民との衝突がたびたび発生していた。同時に経済上では極度のインフレが発生し、生活が困窮した住民の間で不満が募っていった。こうした状況下<で>・・・二二八事件が発生する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%84%80

 逮捕された市民の家族のなかには、「贖罪金」という名の高額なワイロを要求された者もいた。・・・
 「二・二八事件」に関連して、一ヶ月余の間に殺害された台湾人は、・・・約2万8000人を数える。これは当時の台湾人の200人強に一人が犠牲になったといえ、日本の50年間の統治において、武力抵抗で殺戮された台湾人の数に匹敵する。・・・
 こうした背景のもとで、台湾人に国民党政権と外省人に対する嫌悪感と台湾独立の志向が芽生え、台湾で許されなかった政治運動や台湾独立運動は、海外で展開されることになった。・・・
 <やがて>海外での台湾独立運動の中心は日本から米国に移り、1970年1月に総本部をニューヨークにおく「台湾独立聯盟」(後に「台湾独立建国聯盟」)が発足し、・・・世界的な組織に発展したのである。」(146〜149、152〜161)

→以上、長々と引用したのは、二・二八事件は、現在の台湾における、外省人中心で中共との宥和政策を進める中国国民党と、本省人中心で台湾独立志向の民進党の対峙構造につながる、政治状況の原点だからです。
 このくだりを読んで、当時の蒋介石政権を「腐敗したファシスト政権」と形容することすら過大評価だという気になってきました。
 匪賊(bandit)政権、と呼んだ方がよさそうです。
 (コラム#6600に転載した、私のガーディアンへの投稿の中で、既にこの表現を使いました。)
 そんな政権とさんざんつるんだ挙句、この事件を契機に非難してみせた米国の偽善性、というか醜悪さにも、今更ながら、反吐が出る思いです。
 なお、伊藤は、いささか陳儀らに厳し過ぎるように思います。
 元来匪賊政権であったところ、中国共産党との抗争で追い詰められて台湾から収奪しなければならない等、その悪が一層募っていた、蒋介石政権の業を一身に背負いつつ、カスのような部下達を使って施政を行わなければならなかったのですからね。
 どうせ、彼の直接の処刑理由もでっち上げでしょう。
 陳儀もまた、あの激動の時代の犠牲者の一人と言えるのではないでしょうか。(太田)

(続く)