太田述正コラム#6597(2013.11.26)
<アングロサクソン・欧州文明対置論(その8)>(2014.3.13公開)

 (8)米国論

 「アレクシス・ド・トックヴィル<は、>・・・『アメリカにおける民主主義(Democracy in America)』<の中で、>・・・仏領アメリカがルイ14世のフランスの専制(autocracy)と封建制(seigneurialism)を誇張したように、また、スペイン領アメリカがフィリップ4世(Philip IV)のスペインの掘立小屋的反啓蒙主義(ramshackle obscurantism)<といった趣のもの>であったように、英領アメリカ(English America)・・と彼が呼んだ・・は、その母国の郷党主義(localism)、リバタリアン主義、そして重商主義を誇張した<、と記した>。」(D)

 「<英本国政府が課税しようとしたところの、英領北米>諸植民地における全般的な課税水準は、わずかに英本国での50分の1に過ぎなかった。
 この<程度の税の>諸賦課に<英領北米植民地人達>は反対したわけだが、それとの戦いが始まる前にそれは<本国政府によって>撤回されていた。
 暴力への導火線となったボストン茶会が行われたのは、<増税どころか、>茶に対する関税の軽減がきっかけだった。・・・
 ヴァージニア州生まれのレディー・アスター(Lady Astor)<(注15)>が後に形容したように、<米独立>戦争は、「英国の諸理想のために、英国人たるアメリカ人達によってドイツ人の<英>国王に対して」戦われたのだ。・・・

 (注15)Nancy Witcher Langhorne, Viscountess Astor。1879〜1964年。英国下院最初の女性議員。米国での一度目の結婚が破たんしてから英国で生活をするようになり、現地で米国出身の、英国貴族の家柄の男性と結婚。クリスチャン・サイエンスに入信。夫が貴族になり、上院に転じた後、同一選挙区から立候補して初当選した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nancy_Astor,_Viscountess_Astor

 <米独立戦争への>どの<本国政府側、叛乱者側の>関与者達にとっても、この紛争は二つの国(nations)の間のものだという発想はなかった。
 少なくとも、1778年にフランスが参戦するまでは・・。
 実際、この<戦争の>総体は、第二次英語圏内戦と理解する方がよいのだ。
 第一のそれ<・・いわゆるイギリス内戦(太田)・・>は、イギリス、スコットランド、アイルランド、そしてアメリカにおいて、1640年代に戦われたところだ。」(B)

→米独立戦争は、北米大陸の住民側から見て、全く大義なき戦争であった点で、後の米墨戦争や太平洋戦争といい勝負であったと言ってよいでしょう。(太田)

 「ガイ・フォークス(Guy Fawkes)<(コラム#183、1268、3266、4937)>の夜<の行事>は、北米、とりわけ、マサチューセッツ州で人気があったものだ。
 我々はこの史実を、より一般的には、米独立革命を力づけたところの、戦闘的な反カトリシズムを削除することに伴い、我々の集団的記憶から削除した。
 我々は、我々自身に対し、<米独立革命における中心的>論議は、「代表無きところに課税なし」であった、と言い聞かせている。
 若干はそうだった。
 しかし、我々が今日読むところの、政治的パンフレットの著作者達の諸階級こそ、憲法的諸問題に主として関心があったけれど、大衆は、そもそも、大西洋を越えての先祖達の宗教的逃走(ヒジュラ=hegira)<(コラム#6491)>を引き起こした(sparked)ところの、体感された<カトリシズムの>迷信と偶像崇拝の脅威の方により駆り立てられていた(exersed)。
 彼らは、<英本国>政府による、1774年の、ケベックにおけるカトリック教会の伝統的諸権利の承認、という決定にぞっとしたのだ。
 非国教徒の多くにとっては、それは、ジョージ3世がエデンの園にいる自分達目がけて法王的な蛇を送り込んだように見えたのだ。
 第一回の大陸会議(Continental Congress)では、諸決議の中に以下のくだりがある。
 「英領カナダ(dominion of Canada)は、欧州からのカトリック教徒移民によって毎日のように人口が増えることで、かつまた、彼らの宗教の極めて友好的な当局への献身によって、拡張されようとしており、彼らは、時に応じて権力の適任なる諸道具として、古よりの自由なプロテスタントの<英領北米>諸植民地を<欧州におけると>同様の彼らによる奴隷制の状態にしてしまいかねないところの、我々にとって恐るべき存在になりつつある。」
 清教徒達と長老派達は、英国教は、その国家的諸聖餐(stately communions)と諸白袈裟(surplices)と祭壇(altar)前の諸手すりから、法王庁との間で、半ば以上、同盟関係にある、と見ていたのだ。
 <だから、>1760年代にカンタベリー大主教が<英領北米>諸植民地人達を<英国教の>檻の中に入れようとした時、大変な反発が巻き起こった。
 トマス・セッカー(Thomas Secker)<(注16)>は英国教反対者(Dissenter)として生まれただけに、英国教会に改宗した者として、高圧的な(heavy-handed)熱意を抱いており、ニューイングランドの会衆派教会主義(Congregationalism)の首都たるマサチューセッツ<植民地>のケンブリッジを含む、あらゆる場所に英国教の伝道協会を設立しようと試みた。
 <また、>彼は、インディアンに対する清教徒の伝道事業を認める、マサチューセッツ条例(Massachusetts Act)の無効化と、極めて不人気であったところの米国人<英国教会>僧職の創出を追求した。

 (注16)1693〜1768年。医師資格を得てからオックスフォード大卒。カンタベリー大主教。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Secker

 <結局、>聖職者<当局>はそれを諦めたけれど、信頼は二度と回復しなかった。
 米国の宗教についての偉大なる歴史家のウィリアム・ウォレン・スウィート(William Warren Sweet)<(注17)は、「英国教会と英国教反対者達との間での宗教的諍いは、大炎上をもたらす可燃性物資の山を供給したのであって、印紙、茶その他の諸税をめぐる紛争は、点火するマッチとして働いただけだ」としている。

 (注17)1881〜1959年。牧師、教師、学者。米サザン・メソジスト大学神学校教授を長く務める。オハイオ・ウェズレヤン(Ohio Wesleyan)大卒、ペンシルヴァニア大修士・博士。
http://www.lib.utexas.edu/taro/smu/00180/smu-00180.html

 ジョン・アダムスは、今日、人情ある感じの良い男として記憶されているが、その通りの人物だった。
 <しかし、>我々は、彼が真面目に首を傾げたことを忘れている。
 「自由な政府がローマカトリックという宗教と共存できるものなのだろうか」と。
 トマス・ジェファーソンの、人を鼓舞する(stirring)ところの、自由の諸擁護は、現在でさえ我々を感動させる。
 しかし、彼は、「あらゆる国、そしてあらゆる時代において、僧侶は自由に対して敵対的であり、僧侶は常に専制者(despot)と同盟関係にあって、専制者に権力濫用の教唆を行い、その見返りに自らの権力濫用を保護してもらった」ことを確信していた。」(C)

→これほども、欧州文明的なものに対して、その大部分が嫌悪感や恐怖を抱いていた英領北米植民地人達であったわけであり、その限りにおいては、彼らは、大部分の英本国人、より正確には大部分のイギリス本国人と同じなのですが、英領北米植民地人達の過半は、実は、小カトリシズムたる、プロテスタンティズム各宗派の敬虔な信徒であって、カトリック教徒の大部分がカトリック教会の言うことを聞くのと同様、宗派の教義に羈束される、という点では、欧州大陸人の大部分以上に、他律的な欧州文明的な人々だったのです。
 これに対して、イギリス本国人の大部分を占めていた英国教徒達のこれまた大部分は、私見では、自律的な人々であった・・自然宗教信奉者ないし神不可知論者ないし無神論者だった・・のですから、イギリス本国人達の大部分と上記英領北米植民地人達の過半とは、(イギリス本国人達の大部分と欧州大陸人の大部分の関係と同様、)水と油の関係であったわけです。(太田)

(続く)