太田述正コラム#6575(2013.11.15)
<台湾史(その13)>(2014.3.2公開)

 「1919年就任の田健治郎に始まる文官総督は、・・・9人を数え、1936年9月までつづき、・・・文官総督時代・・・といわれる。その後、日中戦争および太平洋戦争に備え、再び台湾総督には軍人の<3人>・・・が起用され、「後期武官総督時代」・・・といわれる。・・・

→日支戦争の前年に武官総督時代になったということは、台湾併合時の有事後の後の平時の時代が終わり、東アジア情勢の緊迫化の下、日本帝国が有事に入ったことの反映であり、適切な措置でした。(太田)

 日本政府は台湾領有当初、年間約700万円の補助金を台湾総督府に割き、13年間を目途に台湾の財政独立を予定していた。それが産業振興の順調な進捗と専売や地租収入の増大などにより、台湾は1905年に財政の独立を成し遂げ、この間の国庫からの補助金は2424万円であった。2年後の1907年からは、日本政府の財政に寄与するまでにな<った>・・・のである。・・・
 台湾総督府は1935年10月に、「台湾始政40周年記念大博覧会」を台北で開催した。このとき中華民国国民党政権は福建省と厦門市の幹部を中心とする視察団を派遣し、博覧会はもとより日本統治下の台湾の施政を、つぶさに視察させた。視察団は帰国後の1937年に、『台湾考察報告』なる報告書を刊行した。この報告書は、日本の台湾統治に最大級の賛辞を惜しみなく呈しており、いわく「他山の石」「日本人にできて中国人になぜできないのか」「わずか40年の経営で、台湾と中国の格差は驚くばかり」と評して、日本帝国主義の台湾支配を批判するどころか、その成果に驚愕し絶賛している。」(118〜119、121)

→他方、朝鮮半島には最後まで持ち出しであったと承知していますが、南洋や満州を含め、〆て日本本土による持ち出し額は、名目値や(物価上昇を勘案した)実質値でどうであったのか知りたいものです。
 これが、終戦時の日本本土企業や日本本土人の財産の喪失額をも勘案したらどうなるのかも・・。(太田)

 「1930年10月27日の朝、中央山脈の中部にあたる霧社で、山地先住民が日本人を襲撃するという事件が起こった。・・・日本人132名が殺害され、215名が負傷、さらに和服を着ていた台湾人2名も、日本人と間違えられて殺された。これを「霧社事件」<(注34)>とい<う。>・・・

 (注34)「暴動の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打した。この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が、特にモーナ・ルダオは警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、暴動を画策したと言われている。・・・戦闘の中で、700人ほどの暴徒が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。・・・鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃21人であった。掃討戦で戦死した日本軍人・味方蕃兵士は靖国神社に祀られている。・・・全国大衆党の衆議院議員であった河上丈太郎と河野密は訪台して事件を調査し、1931年6月に全国大衆党は国会で当局の対応を批判した。昭和天皇までもが事件の根本には原住民に対する侮蔑がある、と漏らした」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 掃討過程において276名が殺害され、残る人々は総督府に味方する山地先住民の居住地に強制的に移された。しかし、翌1931年4月に他の部族の襲撃により210名が殺害され、これを「第二霧社事件」<(注35)>という。・・・

 (注35)「1931年4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者をタウツア社(タウツア社は反乱側と対立しており、味方蕃として日本に協力した。)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。・・・霧社事件の後始末で警察が味方蕃から銃器を回収する寸前の出来事であったが、当時の警察官から、警察がタウツア社に襲撃を唆したとの証言がなされている。」(ウィキペディア上掲)

 <この事件は、>石塚総督と・・・総務長官の引責辞任にまで発展し<た。>・・・
 先住民に対する日本語教育の普及率は、漢族系台湾人よりも高く、今日でも先住民の部族間の共通語となっているほどであり、また、太平洋戦争に突入した後、先住民だけで編成された「高砂義勇隊」が、東南アジア戦線で日本国のために勇敢に戦ったことはつとに知られる事実であり、先住民に対する日本の教化や政策を、霧社事件ゆえに一概に失敗と断じ切るのは、いかがなものであろうか。」(121〜124)

→ここは伊藤の言う通りだと思いますが、改めて植民地(異民族)統治の難しさを痛感させられます。(太田)

 「「後期武官総督時代」<が>始ま<ると、>・・・予備役海軍大将・小林躋造・・・は、・・・台湾人の「皇民化」、台湾産業の「工業化」、台湾を東南アジア進出の基地とする「南進基地化」を、台湾統治の基本政策とすることを表明した。・・・
 新聞の漢文欄の廃止、日本語の使用の推進、寺や廟の偶像の撤廃、神社参拝の強制、台湾の慣習による儀式の禁止・・・台湾人の日本名使用を進める「改姓名運動」・・・などが、やつぎばやに実施されて行った。・・・
 <また、それまでは、>台湾経済は・・・製糖業に代表される食品加工の分野は別として、農業と軽工業が中心であった。ところが戦時体制下<においては、>・・・原料の供給はもとより重工業の分散、南進の補給基地などの要請から、台湾の重工業は飛躍的な伸長を遂げたのである。・・・
 1939年にはついに工業生産が農業生産を上回り、総生産額の45.9%を占める<に至った。>・・・
 本来、日本政府は台湾人に兵役の義務を課さなかった。ところが・・・兵員が不足するにおよび、台湾人は軍属や軍夫として徴用され、大量に前線に送られることになった。そして「志願兵」の名のもと、1942年4月から「徴兵」が始まった。「陸軍特別志願兵」である。・・・
 <更に、>1944年9月に台湾にも徴兵制が施行され・・・た。・・・この徴兵制の施行に合わせて、翌年3月に衆議院議員選挙法が改正され、わずか5名とはいえ、はじめて台湾人を帝国議会に送る国政参加の道が開かれた。・・・
 3万余の台湾人犠牲者をはじめ、負傷した軍人、軍属、軍夫は、戦後、日本国籍を失ったことを理由に、なんらの補償も受けていない。その後、1974年末にインドネシアのモロタイ島に残留、30年ぶりに発見された元日本兵先住民のスニオン(日本名は中村輝夫)の救出<があり、>・・・1987年9月に成立した議員立法の「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」で、戦病死と重傷者を対象に一人につき200万円の弔慰金が、日本政府から支払われた。」(125〜132)

→このあたり、皇民化政策が基本的にとられなかった(注36)ところの、朝鮮半島統治との比較が、とりわけ欲しかったところです。(太田)

 (注36)「朝鮮総督府においても、1921年から1945年の日本統治終了に至るまで、朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進や給与において有利に処遇していたことから、朝鮮語の抹殺が企図されていた形跡はなく、1943年当時に至っても日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221,5人に過ぎないとする資料もあ<る。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE#.E6.9C.9D.E9.AE.AE.E8.AA.9E

(続く)