太田述正コラム#6573(2013.11.14)
<台湾史(その12)>(2014.3.1公開)

 「1921年1月から、日本統治下の台湾の自治をめざす、・・・「台湾議会設置請願運動」が始まり、・・・14年にわたり15回におよぶ帝国議会への請願が展開された・・・。・・・
 帝国議会の対応は、「不採択」「上程せず」「審議未了」のいずれか<だった。>・・・
 この運動に対して理解を示すだけでなく、理論的な側面から支援した日本人学者に、東京帝国大学教授の矢内原忠雄<(コラム#219、1437、1439、1442)>、京都帝国大学教授の山本美乃越、明治大学教授の泉哲らがおり、帝国議会への請願紹介議員として貴族院議員の江原素六<(注31)>、山脇玄<(注32)>、渡辺暢<(注33)>、衆議院議員の田川大吉郎、清瀬一郎<(コラム#4703、5184)>、神田正雄、清水留三郎らが名を連ねている。・・・

 (注31)1842〜1922年。「旧幕臣、・・・政治家、教育者、キリスト者。・・・東京に麻布学園を創設。・・・自由民権運動に参加し、自由党の板垣退助となどとともに日本各地を遊説し第1回衆議院議員総選挙では静岡第7区・・・から・・・出馬し当選する。後年には立憲政友会の結成に尽力した。1912年・・・に貴族院勅選議員となり、没年まで政治家として活躍した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8E%9F%E7%B4%A0%E5%85%AD
 (注32)1849〜1925年。「法学者、法制官僚、政治家、教育者。法学博士、行政裁判所長官、貴族院議員。福井藩藩医・・・の長男として生まれる。福井藩医学校・済世館で学び、さらに長崎で蘭学を学んだ。・・・1870年・・・文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学などで法学等を学んだ。1877年・・・に帰国。・・・1891年・・・貴族院勅選議員に任じられ・・・死去するまで在任。また、1903年、山脇女子実修学校・・・[現山脇学園中学校・高等学校]・・・を創立し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%84%87%E7%8E%84
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%84%87%E5%AD%A6%E5%9C%92%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 ([]内)
 (注33)わたなべとおる。1858〜1939年。「司法官、政治家。貴族院議員。旧佐倉藩士。・・・司法省法学校<卒>・・・日韓合併後は朝鮮高等法院の院長を勤める。高等法院長時、三・一運動の指導者らを裁く。被告達は反乱罪で起訴されたが、裁判官らはこれを騒擾罪として軽刑に処した・・・。・・・定年後の1924年・・・、貴族院勅選議員に選任され、死去するまで在任した。・・・次女 東山千栄子(女優)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%9A%A2

 田健治郎総督は、・・・既設の「台湾総督府評議会」を活用し、総督府に協力的な台湾人「御用紳士」8人とともに、林献堂を評議会員に任命した。この評議会はたんに「総督ノ監督ニ属シ其ノ諮問ニ応シ意見ヲ開陳ス」るに過ぎ<なかった。>・・・
 「台湾議会期成同盟会」を設立する構想が<出てくると、>台湾総督府は、・・・<日本の>国内法の「治安警察法」・・・にもとづき・・・「安寧秩序ヲ保持スル」ことを理由に結社を禁止し<た。>・・・
 台湾で禁止された台湾議会期同盟会は、ただちに東京で同名、同目的、同会員の組織を結成し、内務大臣の認可を得た。・・・台湾総督府は・・・関係者を治安警察法違反の容疑で逮捕した。同時に事件に関する報道を禁止し、日本本土向けの電報と書信を検閲するという、徹底した措置をとった。・・・1925年2月に、第3審は・・・刑<を>確定<させ>た・・・。・・・
 これより以後、政治運動で入獄した政治犯は英雄視され、数ヵ月か一年や二年の入獄は、「食事付き無賃宿」の感覚でとらえられるようになった。しかし、このような認識と感覚は植民地下とはいえ、「法治国家」だからこそ通用したもので、第二次世界大戦後の中華民国国民党政権の下では通用せず、「二・二八事件」で台湾人指導者や知識人の犠牲を余儀なくさせたのである。」(105〜108、110、112)

→同じ団体が、同じ法律に照らし、台湾では設立を禁止され、本土では認められたのはどうしてか、そのことを裁判所、とりわけ大審院がどう判断したのか、等、説明が欲しかったところですが、いずれにせよ、伊藤の指摘通り、植民地を含む日本の法治主義の貫徹ぶりには改めて瞠目させられます。
 また、現在の参議院(議員)に比して、戦前の貴族院(議員)の方が機能しているように見えるのも興味深いですね。(太田)

 「文官総督の就任と同化政策・・・のもとで本土と台湾の教育制度の一元化<が>進められた。日本が台湾を放棄する一年前の1944年・・・の児童の就学率は、92.5%という驚くべき高さであり、・・・各国の植民地の教育状況と比較しても、台湾は格段に教育の普及に力を注いでいたことが窺える。・・・
 イギリスは1786年からマラヤに進出したが、唯一の大学(マラヤ大学)を設立したのは、1世紀半も過ぎた1948年のことであった。日本が台北帝国大学を設立したのは1928年、台湾領有から33年後のことである。・・・台湾ではすでに化学分野でノーベル賞の授賞者(李遠哲<(コラム#1509、2702)>、台湾大学修士課程を終えて米国に留学)をだして<いる。>・・・

→英国等に比して日本の植民地統治は教育にも力を入れたことは確かですが、伊藤の説明は余りにも不正確です。
 英国のマラッカ海峡周辺地域における植民地全体を見れば、既に1904年にはシンガポールに私立医科単科大学が設立されており、1928年には文系単科大学も設立されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/National_University_of_Singapore
 確かに、植民地化した時期から見れば、台湾に比べて設置時期が大幅に遅いし、国公立大学でもありませんでしたが、医系と文系の単科大学が揃った時点でこの地域には実質的に総合大学が設置されていた、と言えるでしょう。
 また、1949年・・1948年というのは意味不明・・に上記2校が合併して設立された(私立)マラヤ大学は、シンガポールにしかキャンパスはありませんでした。
 クワラルンプールに同大学のキャンパスができたのは1959年のことであり、1962年に同大学は二つに分割され、それぞれシンガポールとマラヤの国立大学となって現在に至っています。
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Malaya
 ちなみに、1957年にマラヤが独立、[1959年にはシンガポールが英国の自治領となり、]1963年にシンガポール等が加わってマレーシアが成立し、1965年にシンガポールがマレーシアから分離しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 ([]内)
 なお、初等中等教育の普及度についても、英国等の植民地との数値的比較が欲しかったところです。(太田)

 植民地統治下の台湾では、日本人官吏や警察官と比べて、概して教師は使命感が強く人格的にも優れ、敬愛と信頼を集めていた。
 今日の台湾人年配者に多く見られる親日感情は、これら日本人教師の存在に負うところ大である。」(116〜118)

→これらは、戦前の日本の教育政策が、(高等教育中の指導者教育においては失敗し、文系教育に関しても問題があったが、)初等中等教育、教師(師範)教育、及び高等教育中の理系教育において成功していたことが背景にある、と考えられます。(太田)

(続く)