太田述正コラム#6559(2013.11.7)
<台湾史(その8)>(2014.2.22公開)

 「リゼンドルは厦門領事在任中の1867年に、台湾南部の先住民部族長のトウキトクとの間に、船舶の遭難救助に関する条約を結んでいる。当時、台湾南部の海域では、米国船をはじめ多くの外国船が遭難しており、遭難者が先住民に殺害される事件が頻発していた。しかし、清国政府は先住民とその居住地域を、「化外の民、化外の地」であるとして責任を回避したため、リゼンドルは米国政府の承認を得て直接、トウキトクと条約を結んだ。これはあたかも、台湾に二つの政府が存在するようなものであった。
 台湾進出の準備を進める一方、外務卿の副島種臣が「日清修好条規」<(注19)>批准書交換のために、1873年3月に北京を訪れ、牡丹社事件に関しても清国政府と交渉した。清国政府は台湾の住民は「化外の民」で、その地域は「教化のおよばないところ」として、牡丹社事件の責任を回避した。清国政府の姿勢は、リゼンドルの遭難救助条約の締結の経緯と同じであった。これを受けて日本政府は翌1874年4月、陸軍中将の西郷従道を台湾蕃地事務都督に、大隈重信を台湾蕃地事務局長官に、リゼンドルを事務局二等出仕に任じ、台湾出兵の首脳陣とした。西郷に率いられた日本軍は、同年5月17日に長崎を出発、22日には台湾南部の恒春近辺に上陸した。そして風土病や先住民のゲリラ的な抵抗に悩まされながらも、6月には「蕃地」の占領に成功した。

 (注19)「<対露抑止の観点から焦眉の急であった(太田)>李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから1870年7月27日・・・柳原前光・花房義質を派遣して予備交渉を行い、次いで正規の大使として・・・大蔵卿伊達宗城・・・が送られ、副使となった柳原とともに・・・直隷総督李鴻章<と>・・・詰めの交渉を行った。平等条約ではあったが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていた。具体的には<、>外交使節の交換および双方に領事を駐在させる(第4条、第8条)<、>制限的な領事裁判権をお互いに認める(第8条、第9条、第13条)<、>通商関係については欧米列強に準ずる待遇(最恵国待遇・協定関税率)をお互いに認め合う<、>などといった内容であった。なお、この条約の特異性から一部欧米列強から軍事同盟の密約の疑惑を持たれるなどしたことや、治外法権の存在などに対する反対論があり批准が遅れたが、マリア・ルス号事件や<宮古島島民遭難事件>の影響で批准の必要性が高まり、一連の事件の始末のために清を訪れた外務卿副島種臣によって1873年・・・4月30日に批准書交換がされて発効した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F
 「1872年7月9日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス(Maria Luz マリア・ルズと表記する書籍もあり)が横浜港に修理の為に入港してきた。同船には清国人・・・苦力231名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡し<英>軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断し<英>在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は大江卓神奈川県権令(県副知事)に清国人救助を命じた。しかしながら日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。このため政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は人道主義と日本の主権独立を主張し、マリア・ルスに乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。マリア・ルスは横浜港からの出航停止を命じられ、7月19日(8月22日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルスの船長は訴追され神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は7月27日(8月30日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルスに戻すように訴えた。この訴えに対し2度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。また、この裁判の審議で船長側弁護人(<英国>人)が「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとのこの批判により日本は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年10月に芸娼妓解放令が出される契機となった。裁判により、清国人は解放され清国へ9月13日(10月15日)に帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した。しかし問題はこれで終わらなかった。翌年2月にペルー政府は海軍大臣を来日させ、マリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。この両国間の紛争解決の為に仲裁契約が結ばれ第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることになった。ロシア皇帝・アレクサンドル2世による国際裁判は1875年・・・6月に「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の訴えを退けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

→このあたりの史実、まことに興味深いですね。(太田)

 西郷らが台湾南部を占領している間に、日本政府は大久保利通を全権弁理大臣として、リゼンドルをともなわせて清国に派遣した。重ねての交渉のすえに同年10月31日、日清両国の間に「北京専約」<(注20)>が結ばれ、清国は日本に50万両を支払い、日本は台湾から撤兵することが確認された。そして琉球の帰属に関しての明確な規定はないが、清国政府が日本の台湾出兵を国民保護の「義挙」と認め、<琉球の宮古島の>遭難被害者の遺族に弔慰金10万両を支払うことなどが合意された。台湾の一部を占領する目的こそ実現しなかったが、間接的に琉球の日本帰属を清国政府が認めることになったのである。

 (注20)清華大学現代国際関係研究院副院長劉江永は、「米国は当時、日本に台湾占領政策をそそのかし、手を貸していた。<デロング>駐日公使は、台湾は「無主の地」に等しいとし、日本側に<リゼンドル>駐厦門領事を顧問として推挙した。・・・<そして、日本の台湾出兵の後、>清政府は不平ながら琉球を手放し、台湾を守った。1874年10月、「中日北京専約」が締結。1875年7月、日本政府は琉球藩王に清への朝貢取り止めを命じる。1879年1月、尚泰琉球藩王に1週間以内に日本国憲法への遵奉を誓わせる。同年4月、琉球が沖縄に改名された。」と記している。
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2011-05/03/content_22487153.htm
 チャールズ・デロング(Charles E. DeLong。1832年〜76年)は、「<米>国ニューヨーク出身の政治家、外交官。・・・1869年〜1874年・・・の間、日本駐在の<米>公使を務めた。・・・1871年・・・に派遣された岩倉使節団に同行して、一時帰国。日本の使節団の通訳やその他の面倒を見た。・・・デロングは、この頃、・・・、駐日英国公使のハリー・パークスとは対日外交上のライバル関係にあった。デロングは駐米日本代表の森有礼代理公使とともに、岩倉使節団・・・に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言・・・した。<しかし、>ハミルトン・フィッシュ国務長官<との交渉は>不調に終わった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0

→デロング米公使がリゼンドル米領事を日本政府に推薦し、日本に台湾領有を促したとの劉の指摘が正しいとすれば、それは、米国の対東アジア政策の一環としての動きであったということになります。
 当時の米国は、その間海外進出が足踏みした南北戦争(1861〜65年)が終わり、「クリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のため、1867年にクリミア戦争の中立国であった」米国にロシアが売却したアラスカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AB%E5%B7%9E
を獲得し、世界覇権国への野望を密かに抱き始めた時期であり、さしあたり、日本を使嗾して、清の一層の権威の失墜と弱体化を図り、併せて清に最大の利権を有する英国の影響力の減殺をも図りつつ、日本の朝鮮半島進出を黙認することによって、ロシアの東アジアにおける南下を食い止め、もって、想定された将来の米西戦争での勝利に伴う米国のフィリピン領有のための環境を醸成しようとしていた、という大胆な推測が可能かもしれません。
 この推測が事実であるとすれば、日露戦争中の1905年7月の(米国のフィリピン領有、日本の朝鮮半島の保護国化を相互に認めた)桂・タフト協定
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%88%E5%8D%94%E5%AE%9A
は、上記米構想の成就であった、ということになりそうです。
 その米国は、日本が日露戦争に勝利すると、もはや用済みとばかりに、一転、今度は日本つぶしに取り掛かります。
 劉の論調からも窺えるように、中共は、米国を、どんな友人も利用だけして役に立たなくなったら弊履のごとく捨て去る、危険で気まぐれな国と見ていると私は考えいるのであり、これは、米国が、先の大戦終了直後に蒋介石政権を見捨てたこと、その後、対ソ・対ベトナムの観点から、もう一度台湾の蒋政権を見捨てて中共と誼を通じたこと、を肝に銘じているからこそでしょう。(太田)

 日本の台湾出兵は、それまでの清国政府の消極的な台湾経営への警鐘となった。清国政府は日本軍が台湾に到着した直後の1874年5月27日に、・・・<高官を台湾担当に発令し、彼は、>・・・同年6月17日に台湾に到着<した>。・・・
 <その後、>フランスは清国の属領であるベトナムの領有をめぐる、清仏戦争のさなかの1884年4月・・・8月・・・<及び>11月から翌1885年2月の間・・・台湾北部の占領を<図ったが>果たせなかった。そこで<今度は、>・・・澎湖島・・・<を>1885年3月末に占領した。4月なかばにいたり、ベトナムがフランスの保護国となる前提で、清仏両国の停戦協定がなり、フランスは台湾海峡の封鎖を解き、澎湖島からも撤兵した。・・・
 <これを受け、>1885年10月に台湾<は福建省から分離され>独立した「省」とな<ったが、清国による台湾の積極経営はついに軌道に乗ることなく、日清戦争の結果、終焉を迎えることとなる。>」(56〜64)

(続く)