太田述正コラム#6547(2013.11.1)
<台湾史(その6)>(2014.2.16公開)

 「清国は212年にわたって台湾を領有したが、1874年までの約190年間は、消極的な経営であった。・・・
 台湾と澎湖列島を福建省の管轄下におき、厦門と台湾を管轄する「分巡台厦兵備道」を設け<た。>・・・分巡台厦兵備道は軍事および行政を管轄するが、軍事力の行使による治安維持に重きがおかれていた。・・・<そして、>台湾に赴任する官吏の任期を3年とし、・・・家族の同行も禁じた。また、<道の隷下の>総数約1万からなる陸軍と水軍の部隊は3年ごとに移動させた。これを「班兵制」といい、台湾現地からの募兵を禁じた。・・・
 <また、>早々に、移住民10数万を中国に強制的に引き揚げさせ<、かつ>・・・新規の移住を制限した。妻子の渡航禁止も<なされ、>・・・妻子を原籍地にとどめおくことで、いわば「人質」とし、台湾の人口増加の抑制をはかった・・・。ちなみに、オランダもスペインも台湾を占領すると、まっ先に城塞を築いたが、清国政府は台湾の領有から約40年間、城壁の構築を禁止した。反乱勢力に城を拠点にされることを恐れたから<だ。>・・・
 <しかし、>台湾への密航は増えるばかりであった。・・・
 <他方、>台湾の移住民には「封山令」で臨んだ。・・・<このようにして、>清国政府は先住民と移住民の居住地域を隔離して境界線を設け、先住民を封じ込めると同時に、移住民に対しては越境と先住民との交流や通婚を禁じた。これを犯した者には厳罰で臨<んだ。>・・・
 清国政府は移住民の武器の私蔵を防ぐために、長期にわたり鉄と鉄製品の移入はもとより、鋳造も禁止した。・・・<また、>住民が竹槍や竹竿を武器として用いることを恐れ、竹を伐採して移出および輸出することを禁じた。・・・
 しかし、渡航制限と同様に、歳月の経過とともにこれらの制限措置は有名無実化して行った。・・・
 清国政府の消極的な台湾経営を積極的なものに転じさせたきっかけは、1874年の日本の台湾出兵であった。・・・
 <台湾での>大がかりな武力蜂起や騒擾事件の多くは移住民によるもので、清国政府の貪官汚吏に対する不満が主な原因となっている。・・・
 先住民と比較して、移住民の抵抗が圧倒的に多く、かつ規模も大きかった原因の一つに、鄭氏政権崩壊後に顕在化した秘密結社である、「天地会」<(注11)>の存在がある。天地会は政治的には異民族である満州王朝の打倒と、漢民族の明王朝の再興をめざし、経済的に派孤立無援の移住民の互助を目的とする民間組織である。・・・

 (注11)「天地会の成立については諸説存在し、現在まで定説は確立されていない。明朝遺民或いは、鄭氏残党を主体とし、反清復明を目的とした秘密結社だったものが、次第に下層民衆の互助組織に変質したという説と、当初から農民や労働者の互助組織として成立し、反清復明の主張は存在しなかったという説が存在している。・・・天地会の別称は時代や地方により異なり洪門、三点会、三合会<(コラム#4908、4940、5102)>、添弟会、三河会、圏子会等など50種類以上の別称が確認されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E4%BC%9A

 <他方、武力蜂起や騒擾事件が、結局>失敗<に終わった>一因には、・・・移住民<間の武闘を伴った反目・対立である>・・・「分類械闘」・・・<があった。>・・・」(40〜51)

→興味深い記述ではあるものの、(税金の個所で指摘したことと同趣旨ですが、)伊藤は、台湾での事象を支那本土や日本における同時期の事象と比較する視点が薄弱です。
 清による台湾統治は、理藩院(注12)による蒙古やチベットや新疆等の統治、とりわけ、新疆の統治と比較したり、ミャオ族(注13)等に対する統治と比較したりすべきでした。(太田)

 (注12)「清朝太宗により平定後の内蒙古の間接統治を目的に設置された蒙古衙門・・・を前身とする。1638年・・・に理藩院と改称された。・・・清朝の版図が外蒙古、青海、西蔵、新疆へと拡大するに伴い、これらの地域は藩部と称され、理藩院に統轄されるようになる。理藩院の職務としては諸藩部の朝貢・封爵・俸禄・会盟・駅伝・互市・裁判などが挙げられる。・・・ロシアとの外交・貿易関連事務についてもその職務としていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%97%A9%E9%99%A2
 (注13)「ミャオ族(苗族)・・・は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。・・・<彼らに対する>明代の統治政策は、各地域の首長の世襲支配権を認めて土司に任命して間接統治をする政策をとっていたが、次第に現地との乖離が大きくなり、ミャオ族の反乱も多発するようになった。清代には貴州省などミャオ族地区への漢族の移住が増え、中央が地方官の「流官」を任命する直接支配に展開した。これを改土帰流政策(土司=少数民族首長支配を改め、流官=中央任命の地方官支配に帰すこと)という。同化政策や清朝の増税に抵抗して、ミャオ族は三次(1735年〜1738年・・・1795年〜1806年・・・1854年〜1873年・・・)にわたる反乱を起こした。特に・・・最後の反乱は大規模で、咸同起義・・・と呼ばれ、ミャオ族人口の三分の一だけが生き残ったともいう。その後は、多くの漢族商人が現地にはいり、林業を中心とした商業網を確立し、ミャオ族をはじめとする現地の人々は抑圧されることになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F
 なお、支那最大の少数民族のチワン族については、「漢代に南越国の支配下に入り中華文明の一部となった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AF%E3%83%B3%E6%97%8F
ことから、比較の対象としては必ずしも適切ではなかろう。

(続く)