太田述正コラム#6545(2013.10.31)
<台湾史(その5)>(2014.2.15公開)

「<清に滅ぼされた明の後裔を担いで明の復興に向け努力していた父鄭芝竜の清による北京>幽閉と<清兵に凌辱された>母の自害<の後、長男の>・・・鄭成功<(コラム#706、4854、5108、5362、5364)>は中国各地を転戦したがその甲斐なく、ついに1661年には福建の厦門と金門の二つの島の固守に、力を注ぐ状況に追いこまれていた<ところ、>・・・<彼は、>400余の艦船と2万5000の将兵を率いて、同年4月にまず澎湖島を占領し、つづいて台湾をめざした。・・・
 <彼は、>・・・防備の薄いプロビンシャ城を襲い、いともたやすく手中にした。鄭軍はさらにゼーランジャ城を包囲した・・・。・・・バタビアからの援軍は時機を逸し、先住民の応援は届く前に潰された。結局、オランダは1662年2月に鄭成功の軍門に降り、バタビアに撤退した。こうしてオランダの38年にわたる台湾支配には、終止符がうたれたのである。・・・
 <当時の>台湾の人口は先住民と移住民を合わせて約10万余、そのうち移住民は2万余と推定されている。鄭成功の大軍とその家族は約3万、中国から台湾への最初の集団移住とされ<る、>・・・
 台湾に到着して1年たらずの1662年5月に、鄭成功は反清復明の志をとげないまま、波乱に満ちた39歳の生涯を終えた。・・・
 <その息子の>鄭経<(注9)(コラム#5108)>は<厦門から撤退し、>鄭成功の死から19年後の1681年に、父と同じ39歳で死去する・・・。」(26〜30)

 (注9)1642〜81年。「鄭成功の長男として生まれる。1661年に父成功が台湾を攻略した際には廈門の留守を預かった。翌1662年に父が没した後、後継者を巡り在台湾の政権幹部らが擁立した叔父(鄭芝龍の五男)鄭襲と争ってこれを破り、鄭氏政権を継いだ。・・・鄭成功と父鄭芝龍日本人の母田川松、鄭成功の子 鄭経、この3代の歴史の流れを合わせた上で鄭成功という存在は、今日台湾人の精神的支柱(開発始祖・・・)として社会的に極めて高い地位を占めている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E7%B5%8C

→鄭成功は日本で生まれ育った人物であり、彼の台湾攻略後、日本が鄭氏政権を支援する形で台湾を影響下に置こうとしても不思議はなかったわけですが、当然のことながら、幕府にも薩摩藩にもそんな意思は皆無だったわけです。(太田)

 「清国政府はすぐさま台湾に対する封鎖を断行した。「遷界」と「海禁」政策である。遷界は広東、福建、浙江、江蘇、山東の東南沿海5省の住民を沿岸から30里(清代の1里は576メートル)の内陸に移し、この間での居住や農耕はもとより立ち入りを禁じ、海禁は漁船や商船の出入港を禁止したものである。・・・<その結果、>台湾は対中密貿易の一大拠点となり、貿易の利益は増大した。また、皮肉にも封鎖政策に苦しむ中国沿海ことに福建、広東の住民が、ぞくぞくと台湾に移り住み、台湾の人口増加の一因となっている。・・・
 <鄭氏政権下において>住民に課せられた税負担は、まさに苛斂誅求のきわみであった。・・・
 <また、>鄭氏政権は・・・内紛が絶えなかった。・・・
 1681年10月に、清王朝は中国内部の敵対勢力を鎮圧すると、台湾の鄭氏政権の打倒に向けて全力を傾注するようになった。・・・
 <清軍>は1683年7月8日、300余の艦船と2万余の兵員を率いて澎湖島をめざし、・・・占領した。・・・<そして、>策を弄して・・・同月22日・・・台湾を無血占領した。・・・鄭氏政権の酷政に不満を抱いていた移住民は、<清軍を>歓喜して迎えた。・・・27日には、鄭氏政権の第3代藩主・・・が文武諸官をしたがえて、辮髪して恭順の意を示し、正式に降伏した。こうして・・・三代にわたる、23年間の鄭氏政権は幕を閉じた。」(31〜38)

→反清復明を掲げた鄭氏政権と、大陸反攻を掲げた台湾国民政府
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%BA%9C
が二重写しになりますね。
 中共が滅亡する前に滅亡する悲哀を味わいたくないのであれば、台湾は大陸反攻を名実ともに廃棄し、「独立」を果たすべきなのですが、既にその時機を逸しつつある感があります。
 もう一点。
 鄭成功がオランダを打ち破った時、及び、清が鄭氏政権を滅ぼした時において、オランダ統治への叛乱の場合と違って、穏便な処理が行われていることは、キリスト教に由来する西欧の暴力性に対するに「世俗化」した日清の相対的平和性、を示しているように思います。
 もとより、鄭成功の事例はオランダにバタビアに後置兵力があった、清の事例は、いまだ創成期にあって漢人の帰順を全支那で図らなければならなかった、という背景が存在したわけですが・・。(太田)

 「清王朝は鄭氏政権を滅ぼしたが、台湾の領有には消極的であった。・・・ 放棄論は、・・・元王朝の例にならい、領有して東シナ海の前線基地とし、・・・現に台湾に居住する漢族系移住民は全員、中国の本籍地に引き揚げるというものである。・・・
 <しかし、>康熙帝<(コラム#1560、1561、1562、4858、4906)>は・・・1684年5月27日に台湾領有の詔勅をくだした。<(注10)>」(38〜40)

 (注10)そこに至るまでの清側からの経緯は以下の通り。
 「明の臣であった呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して投降し、その後南に逃れた南明の永暦帝を殺したことで清から功績大と認められ、皇族でないにも拘らず親王に立てられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の三人の藩王はそれぞれ雲南、広東、福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体を為していた。・・・順治帝の<息子の>・・・康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3名だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、鄭氏台湾の鄭経も呼応し、一時期は長江以南を全て奪われるなど清朝崩壊の危機を迎えた。群臣は康熙帝に故地満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので民衆は三藩を支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に三藩の乱を鎮圧した。その2年後には・・・鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D

→伊藤は、言葉づかいもまた杜撰です。
 「領有」するのがどうして「放棄」になるのでしょうか。
 そもそも、軍事基地は維持するけれど、行政対象たる漢人はゼロに近づけることで行政は行わないこととしても、台湾に外国勢力が入り込んできたらそれを排除するのでしょうから、やはり、これは領有以外の何物でもない、と言うべきでしょう。
 このことは、尖閣問題を考えるにあたっても頭に入れておかなければならないことである、と思います。(太田)

(続く)