太田述正コラム#6541(2013.10.29)
<台湾史(その3)>(2014.2.13公開)

 「ポルトガルやスペインのアジア進出に後れをとったオランダは、1596年11月に、今日のインドネシアのジャカルタ(オランダ人はバタビアと改名)<(注4)>に到着した。そして1602年3月に、新たに獲得した植民地を経営する特許会社、人類史上最初の株式会社といわれる「オランダ連合東インド会社」<(注5)>を設立し、アムステルダムに本社をおいた。オランダはバタビアに拠点を確保すると、ただちに中国や日本との貿易をもくろみ、そのための中継基地の獲得に乗りだした。バタビアに本拠をおくオランダ艦隊が、台湾海峡に連なる澎湖列島<(Penghu Islands (Pescadores)(太田)>をめざし、その主島である澎湖島に上陸したのは1603年のことで、これが西ヨーロッパ勢力が台湾の地に足を踏み入れた最初であった。

 (注4)台湾以外の話になると、伊藤はてきめんに杜撰になる。
 「ジャカルタ<は>・・・かつてはスンダクラパ (Sunda Kelapa, 397〜1527)、ジャヤカルタ (Jayakarta, 1527〜1619)、バタヴィア (Batavia, 1619 - 1942)・・・) と呼ばれた。ジャカルタの名称は、ジャヤ(偉大なる勝利)+カルタ(街)の二つの単語から作られた合成語が起源である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF
 「1619年には、第4代東インド総督・・・がジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地とした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E6%9D%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BC%9A%E7%A4%BE
 (注5)伊藤は、通称なら「オランダ東インド会社」、正式名称なら、「連合東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie=VOC)」としなければならなかった。(ウィキペディア上掲)

 澎湖島には元王朝時代に巡検司がおかれていたが、その後、明王朝は1388年にこれを廃止し、澎湖列島を放棄した。しかし、オランダ艦隊の到来の報を知ると、明王朝はただちに軍勢をくりだし、澎湖島から追いだした。澎湖島の占領に失敗したオランダ艦隊は、ポルトガルの支配下にあるマカオを襲うが失敗したため、1622年7月に再び澎湖島の占領をはかり、こんどは成功した。
 澎湖島に上陸したオランダ艦隊は、・・・馬公に要塞を構築し、バタビア--馬公--中国--日本を結ぶ、中継貿易の拠点とするとともに、台湾海峡の制覇を試みた。これに対して明王朝は翌1623年9月に、中国の東南沿岸に海禁令(船舶の出入を禁止する命令)をしき、1624年1月には澎湖島を攻撃した。そして8ヵ月におよぶ攻防のすえの同年8月に、明王朝はオランダ艦隊の澎湖列島撤退を条件に、オランダの台湾占領を認めるとともに、オランダとの貿易に同意するという停戦協定案を提示した。オランダにしてみれば、思いがけない好条件であった。・・・ただちに停戦協定が結ばれ、オランダ艦隊は澎湖島にある要塞をはじめとする軍事施設を破壊して、台湾島に移動した。
 明王朝がかくも簡単に、オランダの台湾島占領と領有に同意したのは、もともとこの地を領土とは見なしてはいなかったからにほかならない。」」(7〜9)

→他の典拠で裏付けを取ることはできませんでしたが、伊藤の言う通りであれば、台湾の一環であると台湾/中共側が主張しているところの、尖閣諸島の領有権問題に関して、明時代の海図等は、(もともと法的判断の典拠にはなりえないわけですが、)情状的典拠にすらなりえないことになります。(太田)

 「1624年8月26日に台湾南部、今日の台南付近・・・に上陸・・・すると、オランダは・・・8年余の歳月をかけてゼーランジャ城・・・を完成した。・・・<そ>の翌1625年には、赤嵌にプロビンシャ城・・・の構築をはじめた。・・・ゼーランジャ城は対外貿易の役割がより大きく、プロビンシャ城は・・・東インド会社の事務所や宿舎、倉庫として用いられた。・・・
 意外にも先住民と・・・中国からの移住民・・・は、オランダの台湾上陸と占領に抵抗しなかったばかりか、城塞の構築に協力した。・・・
 これまで台湾に侵入してきた倭寇や、東アジア海賊・・・は、台湾をその「巣窟」として使用しても、「領土」とするような発想はなく、先住民とは支配と服従の関係にはなかった<ところ、>・・・先住民ははじめて支配を受ける身とな<り、>・・・オランダは先住民対策として、キリスト教による教化の一方、武力で鎮圧し、先住民を完全に掌握するまでには、10年余の歳月を要したのである。・・・
 オランダは、台湾<に関して、>・・・外国人による輸入や再輸出に10%の関税をかけた。中国人はこれに応じたが、日本人は承服<しなかったところ、>・・・朱印船の船長である浜田弥兵衛・・・らにともなわれた<台湾>の先住民代表10余名が、・・・三代将軍の徳川家光に拝謁し、オランダの支配の過酷さを訴えるとともに、台湾全島の献上を申しで<たが、>・・・徳川幕府の受け容れるところとはならなかった。やがて幕府は1639年に鎖国を完成させ、日本と台湾の貿易は長崎のオランダ商館を通じて行なわれることになり、日本船の台湾往来は途絶えたのである。」(11〜16)

→日本文明の基層には縄文モードがあり、表層において縄文モードと弥生モードが交替しつつ進行するのが日本史である、と私は主張しているところ、江戸時代の日本が、鎖国以前から、既にその表層が縄文モード化していたことがよく分かる興味深い史実です。
 その後、鄭成功がオランダから台湾を奪取したことを思い起こすまでもなく、先住民による「陳情」があった時点で台湾領有を決意しておれば、何も幕府が直接手をくださなくても、1609年に琉球を服属させていた薩摩藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD#.E8.96.A9.E6.91.A9.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E7.90.89.E7.90.83.E4.BE.B5.E6.94.BB
にでも出兵させることで、簡単に台湾領有に成功していたはずなのに、そうしなかったわけです。
 こんな史実を欧米人に話したとしても、彼らは、にわかには信じないでしょうね。(太田)

(続く)