太田述正コラム#6525(2013.10.21)
<大英帝国の崩壊と英諜報機関(その3)>(2014.2.5公開)

 (5)崩壊期

  ア 崩壊の始期

「非植民地化は、いずれにせよ起こったであろうが、諜報が産婆役を果たさなければ多かれ少なかれ、安定的で(英国と欧米にとって)温和な(benign)形では起こらなかったであろうことはほぼ間違いない。
 大英帝国の終焉が始まったのはいつか、についての議論がある。
 ある者は、1956年のスエズ<事変>であると主張し、他の者は、よりもっともらしく、第二次世界大戦のせいだと主張し、更に他の者は、1919年のアムリッツァー虐殺<(コラム#5035、6317)>が統治意思を喪失した帝国権力を暗示した(indicative)と主張する。
 
→人口だけとっても、(英国の延長たる植民地以外の)英国の植民地の太宗はインド亜大陸であり、その独立・・インド/パキスタン、ビルマの独立・・が日本に対する緒戦の敗北とその後の日本によるインパール作戦によって決定的となったことからすれば、大英帝国崩壊の始期は第二次世界大戦であったに決まっているではありませんか。
 なお、英国に、少なくとも植民地における被治者の生命財産を守ろうとする、という意味での統治意識など、そもそもあったとは思えません。
 2例だけ挙げれば、セポイの反乱(インド大反乱)<(コラム81、208、(729)、893、1677、1769、1793、1847、1882、2030、3561、4416、5035、5164、5652、6467)>が起こったのは、そもそも東インド会社という一私企業にインド亜大陸統治を丸投げしていたからですし、第二次世界大戦中のベンガル大飢饉<(コラム#210、315、609、1670、2307、4503、4665、5035、5124、5870、5964、4041)>では、植民地当局も英本国も、被治者の餓死回避のための救恤措置を何もとらなかったのですからね。(太田)

 ウォルトンは、賢明にも、この点には余り関ろうとはしていない。
 その代わり、彼は、1945〜48年と1959〜64年という、植民地からの撤退の二つの主要時期を実際的に取り扱う。」(F)

  イ パレスティナ

 「1947年4月のある寒い朝、一人の女性テロリストがロンドンの植民地省(Colonial Office)の本部にそっと入り込んだ。
 「外が寒いので中にしばらく入れてもらえないかと警備員に礼儀正しく聞き、彼女は、新聞紙に包まれた24本のダイナマイトからなる大きな爆弾を、下階の洗面所の中に置き、何食わぬ顔をしてごった返す通りに戻り、群衆の中に消えて行った…。」
 この爆弾は、爆発する前に警察によって発見され除去されたのだが、この話から、カルダー・ウォルトンは『秘密の帝国』を始める。」(E)

 「<英国の>初期の諜報史についての短い叙述の後、彼の物語は、第二次世界大戦後のナショナリストによる扇動と共産主義者による破壊工作という背景の下で展開する。
 それは、中東で始まり、中東で終わる。
 最初の一撃は、<ユダヤ人とアラブ人の>二つの陣営に分かれていたパレスティナだった。
 そこでは、シオニストの強硬派が、英国の戦後の脱力(inertia)につけこもうとした。
 後に首相になり、ノーベル平和賞を獲得したメナヘム・ベギン(Menachem Begin)<(注5)(コラム#4198、4354、5499)>の下で、イルグン(Irgun)民兵は、1946年7月にエルサレムのキング・ダビデ・ホテル(King David Hotel)の凄まじい爆破を決行した。

 (注5)1913〜92年。イスラエル首相:1977〜83年。「ロシア領(現ベラルーシ領)ブレスト・リトフスクに生まれた。1919年から1939年にかけて、ブレスト・リトフスクはポーランド領であったが、1939年ソビエト連邦によって占領された。そのため、1940年から1941年にかけてソ連に収監されていた。1941年に解放され、・・・ 1942年からユダヤ人の非公然武装組織イルグンに参加し1947年頃にはそのリーダーとなる。・・・<イルグンは、>1948年の第一次中東戦争において、デイル・ヤシーン事件などパレスチナ人の虐殺を行ったという悪名でも知られている。・・・イスラエル独立後にリクードを設立した。・・・イスラエル国建国以来約30年目にして初めての労働党以外の政党から・・・首相<になり、>・・・エジプトとの関係正常化を発議し、エジプト大統領アンワル・アッ=サーダートをエルサレムに招待した。1978年にキャンプ・デービッドにおいてエジプトのサダト大統領との歴史的和平合意を行い、同年にノーベル平和賞を受けた。・・・
 <なお、>「キング・ダビデ・ホテル<には、>当時パレスチナを統治していたイギリス軍の司令部が所在<していた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%8A%E3%83%98%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%AE%E3%83%B3

→パレスティナ人や英国人に対して人道に対する罪を犯した戦争犯罪人(テロリスト)に、ノルウェーのノーベル平和賞選考員達が別件でノーベル平和賞を授与してもおかしくはないかもしれませんが、カーチス・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)という、日本人に対して人道に対する罪を犯した戦争犯罪人(日本の都市焼夷弾攻撃の指揮官)に別件(航空自衛隊育成に貢献)で勲一等旭日大綬章を授与した、当時の佐藤栄作首相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4
(奇しくも後にノーベル平和賞を受賞)は、空襲で亡くなった日本の人々の尊厳を踏みにじった、と言うべきでしょう。(太田)

 英国は、これに対して、高圧的な警邏(policing)<の実施>と、秘密諸作戦の徐々なるエスカレーションで応えた。
 MI5は、(英中東秘密諜報機関(Secret Intelligence Middle East)を通じて、)対テロ<作戦>、準軍事要員達及び軍保安将校達の活用、そして、不可避の欺騙<工作>、へとどんどん引きずり込まれて行った。
 <MI5は、>また、英本国内のユダヤ機関の構成員達に対するスパイ活動を、内務省の許可(warrant)を得て行った。
 シオニスト達が、テロを英本国に輸出しようとした時に緊張は高まった。
 巨大な爆弾が植民地省に置かれたけれど爆破するには至らなかった。
 すると、手紙爆弾作戦が始まり、元在パレスティナ特殊部隊将校の命が狙われた結果、その弟の死がもたらされたりした。」(C)

 「実際、この上もない皮肉(かつ暗き不条理)は、ウォルトンが語るあらゆる事例において、英国の諜報機関が、自分達が権力の座にあった時の元諸敵と手を携えて仕事をする羽目に陥ったことだ。
 「反植民地の密猟者達が、速やかに猟場番人になった」ことは、英国の諸利益に合致していた、とウォルトンは記す。
 ユダヤ人過激派達がエルサレムのキング・ダビデ・ホテルを爆破して91名の人々を殺してからそれほど時間が経っていない時点での1953年の英合同諜報委員会(joint intelligence committee)の備忘録には、「イスラエルの警察と保安機関の保安水準は高く、英国の訓練と執行の諸方式に立脚している」とある。
 そして、爆破犯達の指導者であった、メナヘム・ベギンは、イスラエルの首相になった。」(B)

→形の上では、その真逆が、英米が、先の大戦中の同盟国たるソ連と、戦後、仇敵関係になったことですが、そもそも、大戦中に、英米が、(日本のナチスドイツとの関係とは違って、)ソ連を、単なる敵の敵の域を超える、緊密なる同盟国として、物心両面で積極的に支援したことは、致命的な誤りでした。(太田)

(続く)