太田述正コラム#6511(2013.10.14)
<バングラデシュ虐殺事件と米国(その5)>(2014.1.29公開)

 --ニクソン/キッシンジャーの対応--

 「パキスタンの軍部を窘めるどころか、ニクソンとキッシンジャーは、東ベンガルにおける流血によって蟠っていたところの、インドとの公然たる衝突に備えて彼らができるあらゆるパキスタン軍部強化策を実行した。
 一旦、戦闘が始まるや、ウォーターゲート事件の前触れのようなものだが、この二人の男は、意識的に米国の法律を破り、米国が供給したF-104スターファイター機をヨルダンとイラン・・当時はまだシャー・モハマド・レザ・パーレヴィ(Shah Mohammad Reza Pahlavi)の統治下にあった・・からパキスタンに移転した、とバスは詳説する。」(A)

 「バスは、ホワイトハウスに対する告発を展開する。
 ニクソンとキッシンジャーは、彼ら自身の(東パキスタンの首都の)ダッカの外交官達によって書かれたところの、西パキスタンは広範な諸虐殺を実行した点で有罪である、との電信群<(後で詳説)>をはねつけた。
 ダッカの総領事のアーチャー・ブラッドは、「ジェノサイド」という言葉を使ったところの、<パキスタン軍等による>諸残虐行為を詳説した怒れる電信を送った。
 しかし、ホワイトハウスのこの二人は、ヤヒアを公的にも私的にも非難するのを拒否しただけでなく、パキスタンの軍事機構の稼働(humming)を続けさせる、米国製の諸装備、弾薬、及び修理部品群<の提供>を控えることもまた拒絶した。
 実際、ニクソンは、<ヤヒアなる>独裁者を純粋な愛情を持って眺めていた。
 「私は、あなたが直面された困難な諸決定を行う際に感じたはずの苦悩(anguish)を理解します」と彼はヤヒアに伝えた。・・・
 これら<のニクソン等>の諸声明は、恐らく専門家達を驚かせはしないだろうが、それらが端的に物語っているのは、ニクソンとキッシンジャーの戦略的知性<がいかほどのものかについて>の顕現だ。
 この危機のあらゆる段階において、この二人の男は、力についての冷静な諸計算と同じくらい、西パキスタンの競争相手であるインドに対する自分達の嫌悪(loathing)によって駆動されていたように見える。
 西パキスタンを窘めようとしなかったことで、彼らは、流血が起きること、そしてまた、(ガンディーが難民達の<インドへの>大流入を食い止めるには国境の向こう側における殺人を止めることしかないと最終的に決定して始めた)地域戦争が起きること、を受忍した。
 それは、今度は、西パキスタンがインドを攻撃することを促した。
 この時点で、ニクソンとキッシンジャーの無謀ぶりは更に募った。
 彼らは、米第7艦隊の艦艇群をベンガル湾に派遣し、恐らくは攻撃のために・・このような機動は<中共が行ったならばインドと同盟関係にあった>ソ連を挑発する可能性があった<というのに、>・・中共に対して諸部隊をインドとの国境に移動させるように促すことまでやってのけた。
 幸いにも、この二つの共産主義国家は、ホワイトハウスの二人よりも冷静であることが判明した。
 この<印パ間の>戦争は、インドがパキスタン軍を粉砕し、東パキスタンが独立を宣言して、すぐに終わった。」(B)

 「長年にわたって<対パキスタン>武器禁輸が続けられていたにもかかわらず、(また、国務省の諸希望にも反して、)諸武器、弾薬、そしてその他の軍事物資がパキスタンに流入し続けるように、大統領と彼の安全保障補佐官<たるキッシンジャー>は努めた。
 イラン・コントラ事件(Iran-Contra affair)<(注7)>に先立って、この二人は、これに引き続いて、イランやヨルダンといった第三諸国を通じて高度な戦闘機を不法に<パキスタンに>移転するお膳立てをした。

 (注7)「<米国>のレーガン政権が、イランへの武器売却代金をニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。1986年に発覚<した。>・・・革命イランは・・・<イラン・イラク>戦争敗北の恐れから、イスラエルからの武器援助を承諾した。戦争時、イランの武器輸入総額は、半分がイスラエルからのものであった。・・・米国政府はこれに目をつけ、・・・<米>軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまっ<ていたところ、>・・・<この>人質解放のために、身代金として、米国の武器をイランへ輸出するように要請した。・・・<これにより、>密貿易は公式な貿易となった。これによって人質の一部が解放されたが、・・・<やがて、>米国政府は直接、イランに対して武器を密輸出するようになった・・・さらに米国政府関係者は、イランに武器を売却した収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に与えていた。ニカラグアは1979年のニカラグア革命により、40年以上続いた親米のソモサ王朝独裁政権が崩壊し、キューバおよびソ連に支援され、社会主義寄りのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)政権が統治しており、冷戦を戦い抜こうとする米国にとっては看過出来ないことであった。それぞれの行為は、当時民主党が多数を占めた<米>議会の議決に反した。議会はイランへの武器販売およびコントラへの資金提供に反対していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

・・・the International Court of Justice in The Hague ruled that U.S. support for Contra rebels trying to overthrow the left-wing Sandinista government of Nicaragua violated international law.・・・
http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304330904579135220056016750.html?mod=WSJAsia_hpp_LEFTTopStories

 <この二人による>これらの諸犯罪は、<米国内外で>大きな関心を集めることが殆んどないまま推移してきた。」(J)

 「米国内では、難民の流入が頂点に達していた時に、そのひどい状態を直接見ようとインドを訪問したエドワード・ケネディ上院議員が、(ニクソンとキッシンジャーの目から見て、)本件に口出し(meddle)をしていた。」(H)

(続く)