太田述正コラム#6501(2013.10.9)
<日本の「宗教」(その4)>(2014.1.24公開)

 第8章は、1889年の日本の憲法の枠内での宗教の範疇の建設を吟味する。
 この憲法は、宗教を極めて特殊な諸信条の型群と慣行群へと格下げ(relegate)した。<(注6)>

 (注6)大日本帝国憲法第28条:「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC28%E6%9D%A1

 <こうして、>個人的な内心の信条は、社会的諸規範と社会的諸つながり(connections)を通じてのみ正統化されることとなった。
 この領域の外に落ちたいかなる個人的信条も、処罰と投獄の脅威に晒されたわけだ。
 明治政府は、認められた(permitted)信条対迷信、宗教制度対偽りの宗教(pseudoreligion)という二分法・・<後者群は>やはり投獄と諸罰金を通じて処罰可能・・に依存することを通じて大衆の<宗教的>慣行を管理(police)した。
 第9章は、この論考の結論として、世界における宗教の発明に対する一般的な批判<的検討>を行っている。
 ジョセフソンは、<欧米における>二つの学者達の陣営を眺めやった上で、それぞれについての説明を行う(address)。
 <この二つの陣営とは、>宗教はあらゆる人間にとって生得(innate)のものであるとする陣営と、宗教は欧州内の相互作用(interaction)と覇権の産物であるとする陣営だ。
 日本の事例において見られるように、種々の実在物(entitiy)は千差万別の過程を辿って諸宗教になる能力を持っている<ことからすると、第一の陣営の主張がもっともらしい(太田)>。
 デリダ、ヘーゲル、そしてヴェーバーといった宗教史の最も良く知られた学者達に若干の依存をしつつ、ジョセフソンは、<第一の陣営の立場に立って(太田)、>宗教と国家の間の多方面にわたる(versatile)関係を反映しているところの自分の<欧米におけるこれまでの宗教に係る学説への>諸批判の立ち位置を確認する(position)。

 (5)批判

 「ジョセフソンによる、日本における宗教の発明の詳細な説明から、彼がその歴史的説明において取り上げることを怠ったいくつかの分野が浮き彫りになってくる。
 第一に、そして何よりも、ジョセフソンは、日本が自分達自身で宗教を定義するにあたっての「巧みな代理物」に固執することによって、明らかな、日本の国内における、そして対外的な、力の動態(dynamics)を無視している。
 私は、日本が欧米の手による同国の宗教に関する戦略の樹立を受動的に受け入れることを拒否したことには同意するけれど、日本の代理物は、この文化間の(transcultural)相互作用の直接的産物なのだ。
 明治政府がその部局(agency)に日本の宗教を創造する権能を付与したかどうかということと、欧米との相互作用に照らして日本がその政治的権能を駆使して単に対応したと認識するかどうかということとは、別の論点なのだ。
 あるところでは、ジョセフソンは、19世紀において<日本人に>宗教を創造させた原因は日本人に対するキリスト教の脅威と影響であったことに気付く。
 しかし、その一方で、ジョセフソンは、繰り返し、本件に関する明治<政府>自身の行動を繰り返し主張している。
 宗教に関する欧州の覇権に関する学界の中枢(stronghold)に異を唱え(disrupt)ようとする彼の願望は、19世紀における日本と欧米の間の力のゲーム(power-play)へのより批評力のある(critical)一瞥を阻害しているのだ。」(D)

→私に言わせれば、「書評」子は、ジョセフソン批判をしているつもりで、結果としてジョセフソンの真意を叙述してしまっているのです。(太田)

3 終わりに

 ジョセフソン自身が、現実の日本を知らないまま、もっぱら欧米の文献に頼って、日本の宗教について空理空論を展開している感があって隔靴掻痒の思いをしながら、本シリーズを書き綴ってきました。

 私見では、明治新政府は、宗教の自由という考え方を受容しつつ、イギリスにおける英国教に相当するものを日本でもつくろうとして、二つ誤りを犯したのです。
 一つは、神道だけでなく、日本の仏教(の大部分)も宗教ではないとしなかったことです。
 もう一つは、このこととも関連して、神道と仏教(の多く)が習合していたにもかかわらず、両者を分離する廃仏毀釈(注7)をやってしまったことです。

 (注7)「一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が1868年4月5日・・・に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、・・・1870年2月3日・・・に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施した・・・さらに、1871年・・・正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地が国に取り上げられ<た。>・・・
 廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。一方で、廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代には寺院がさまざまな特権を持っており、寺社奉行による寺請制度で寺院を通じた民衆管理が法制化され、汚職の温床となったことで、それに対する民衆の反発があったためとの説もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88

 なお、日本の仏教(の大部分)の宗派を宗教でないとしたとすると、他国においては宗教として扱われている、という反論が欧米諸国からなされるでしょうが、宗教とはほど遠かった原始仏教の姿や、日本の仏教の宗派の多くにおける神道との習合や、江戸時代における宗門の行政機関的位置付け等、を説明すれば何とかなったのではないでしょうか。
 もとより、神道と仏教とを共に宗教であるとした上で、習合した神道と仏教を一体のものとして国教化する、というやり方も(習合していない仏教宗派の扱いは悩ましいけれど)理論上はあったわけですが、これでは、キリスト教差別であるとの欧米諸国からの批判を免れませんし、(限界付ながら)宗教の自由を謳った成文憲法たる大日本帝国憲法ができた時点以降においては、(憲法を持たない英国とは違って、)宗教の自由と国教の存在との整合性を論理的に説明することが必ずしも容易ではなくなったであろうことから、好ましくなかったと私は思います。

(完)