太田述正コラム#6499(2013.10.8)
<日本の「宗教」(その3)>(2014.1.23公開)

 (4)この本の各章の概要紹介

 「<この本の>第4章は、両方とも欧米との関わりにおいてまとめられた(formulate)ものだが、神道と科学に関する諸議論を、日本の宗教の歴史的軌跡の中へと挿入する。
 日本の仏教のユニークさと優位を主張するために、19世紀末の明治政府は、仏教、儒教、そして道教を包含する(emcompass)狙いで、「前近代的な(pre-modern)」土着の神道の流儀(tradition)を利用した。
 明治体制までは、神道にはさしたる社会的政治的存在感(weight)がなかったことが、この国の指導部をして、欧米から輸入されたキリスト教との急速に増大しつつあった関わりという時にあたって、欲されたイデオロギーを鋳造することを可能にした。

→ジョセフソンと「書評」子の、ちょっと信じられないほどの無知さがさらけ出されています。
 「お蔭参り(おかげまいり)は、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。・・・お伊勢参り または抜け参りともいう。お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これがお蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。・・・お蔭参りに行く者はその者が属する集落の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事がはばかられた。また、当時、最新情報の発信地であったお伊勢さんで知識や技術、流行などを知り見聞を広げるための旅でもあった。お蔭参りから帰ってきた者によって、最新のファッション(例:最新の織物の柄)や農具(例:新しい品種の農作物がもたらされる。箕に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まる)、音楽や芸能(伊勢音頭に起源を持つ歌舞が各地に広まる)が、実際の品物や口頭、紙に書いた旅の記録によって各地に伝わった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A

 この同じ時期に、欧米は科学と天文学を<日本に比べて>より速く前進させていた。
 日本政府は、キリスト教の諸痕跡を排除するために欧米の科学を検閲するとともに、神道の古の「自然崇拝(nature worship)」を近代的な科学的諸進歩(advancemets)の真の歴史的源泉であると主張した。
 これらの諸展開(developments)によって、日本政府は、世界の他の諸域の諸宗教の上に、これら諸宗教の優位<にあると称する>国家的物語を推すとともに、神道を科学として位置づけた。
 日本の神道の更なる凝固(solidification)<の進展>が第5章の中で<書き>続けられる。
 世界の他の諸地域でも見られるように、世俗主義に向けての動きは宗教を公的領域から減じはせず、宗教を公的/政治的イデオロギーの中へと再位置付け(reposition)をした。

→「書評」子の紹介の仕方に問題があるのかもしれませんが、これでは、明治政府の宗教政策が宗教化政策ではなく世俗化(脱宗教化)政策であったことになってしまいます。明治政府の宗教政策の中で神道に関して(だけ)は世俗化政策をとったことは確かですが・・。(太田)

 明治日本の中では、神道的国家科学(Shinto national science)が世俗的な国家イデオロギーを通じて知識と政治的諸真理とを確認(affirm)した。
 神道は、それによって、政府が政治的現実を創造するためにかかる修辞を利用するものとして機能した。
 欧米の公的・政治的生活との関わりが継続する中で、<明治>政府は、この国の「遅れた」諸流儀・・すなわち、種々の仏教宗派・・を粛清するとともに、自分自身の文学的な(literary)<(?(太田))>現実主義的運動と生政治(せいせいじ。bio-politics)<(注2)>の概念を創造することに努力した。

 (注2)「ミシェル・フーコー<が提案した>・・・支配の概念であ<り、>・・・近代国民国家の支配の方法として、法制度といったものを「外的」に制定するだけではなく、法制度を「倫理」として各個人の「内的」な意識レベルまでに浸透させるようになってきたと<主張した。>」(コラム#6471参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%94%BF%E6%B2%BB

 これらそれぞれにおいて、神道は、科学の背後の理性(reason)となり、そこにおいて、政治家達と教師達は、伝統的聖職者達になり代わって、イデオロギーのために語るようになった。
 これらに加えて、神祇省(Department of Rites)<(注3)>、大教宣布(Great Promulgation Campaign)<(注4)>といった政治的諸変化は、神道の更なる政治的正統化と保護をもたらした。

 (注3)「1871年9月22日<〜>・・・1872年4月21日・・・に神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって設置された。形式上のみとはいえ、太政官よりも上位とされた神祇官に対して、太政官の1機関に格下げられた神祇省は一見すると地位が低下したようにも見受けられるが、実際には大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるためのものであった。神祇卿は設置されず、神祇大輔<以下>が任命された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E7%9C%81
 神祇部局の地位が低下したわけではない理由は、下掲参照。
 「古代の律令制での神祇官は、・・・職員令(しきいんりょう)では・・・太政官よりも上位であり、諸官の最上位とされたと考えられていた。しかし・・・<その>長官は神祇伯<であったところ、>・・・<そ>の相当位階は従四位下<であり、>これは、・・・[中務省・・・の長官である中務暁(正四位上相当)<よりはもちろん、>・・・]七省の長官たる卿(正四位下相当)より下であ・・・太政官より下位<であり>、八省と同等<以下の存在>だった<のであり、>・・・<実は、>文書行政では太政官よりも下位であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8B%99%E7%9C%81 ([]内)
 (注4)「明治維新後、復古神道を奉じる平田派の国学者を中心に祭政一致論が高まり、<1869>年7月8日に神祇官内に宣教使が設置され、宣教長官に中山忠能・同次官に福羽美静が任命された。福羽は神祇官が神祇省と改められた後には事実上の最高責任者である神祇大輔を務めている。続いて、大教宣布の詔・・・<が>1870年2月3日・・・に出され、「治教を明らかにして惟神の道を宣揚すべし」という理念が打ち出された。直接的にはキリスト教を排撃し、宣教使による神道振興と国家的保護を打ち出している。だが、廃仏毀釈による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、更に欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なって神道国教化の動きは不振が続き、・・・1872年4月21日・・・の教部省設置と宮中祭祀の切り離し、宣教使の廃止によって大教宣布は見直しを迫られることとなり、大教宣布の路線の再建・強化を目指した大教院が翌年に設置されることとなる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%95%99%E5%AE%A3%E5%B8%83

 第6章は、神道の明治の<政府による>普及(promulgation)と大部分の日本市民達にとっての宗教的儀式の現実との間の諸乖離に光を照射する。
 <欧米における>キリスト教の場合とは異なり、明治政府は、地方ごとの儀式が継続することに、はっきりとした脅威を感じることはなかった。
 同政府は、むしろ、かかる信条を日本の文明化と上位文化(high culture)<(注5)>の前進に対する障害であると見た。

 (注5)「大衆文化、サブカルチャーなどに対比される言葉。あくまで、社会的な上位者である権力者・知識人が愛好する『文化』であることから、社会的に高い位置づけをされているだけであり、現実に創造力の具現としての価値が高いかどうかは別問題である。<上位文化>は(主に19世紀までの間に<欧州>を中心に形成された)貴族やブルジョワ階級のものであり、知識・教養を持つ少数の者が享受する文化であった。しかし20世紀の大衆文化の時代になると、少数者が<上位文化>を独占するものではなくなり、古典絵画やクラシック音楽も一般に鑑賞されるようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC

 もし、近代化が神道の世俗的イデオロギーに依存しているのであれば、非正統的な聖なるものの崇拝、悪魔群や怪物群への信条、そして種々の霊的な(spritual)儀式群は置き去りにされなければならなかった。
 ジョセフソンは、種々の非正統化メカニズム群を通してカルト崇拝を消滅させる政治諸権力による諸試みの証拠となる東アジアにおける長い歴史を追跡する。
 明治政府は、夥しい諸法や政治的努力(endeavor)を通じて異端を懲戒したが、それは、日本の大衆において、受け容れられている宗教的諸慣行な何であるかについての甚大なる混乱をもたらした。
 第7章は、19世紀後半において、「宗教」の観念の創造にあたって、日本人が、「巧みな代理物」を定立した(Japanese held “tactical agency”)ことを示す。
 この頃、<日本の>学者達が、勉強のために米国や欧州に渡航し始めた。
 欧米によって認められ(recognized)奨励されたところの、この知的交流は、日本の学者達がキリスト教を観察することを許した。
 そのうちの若干の者はキリスト教に批判的なままだったが、多くの者は、キリスト教の社会的倫理的諸機能とそれが近代化諸プロジェクトと提携関係にある(allied with)様子(ways)を認めた。
 これらの日本の学者達は、自分達自身の文化の中の類似の諸制度を探し始めた。
 欧米は、日本の諸宗教のどれをも「主要諸宗教」であるとは認めなかった。
 しかし、ジョセフソンは、これらの諸議論の間に、日本人達が、巧みに(tactfully)自分達自身の宗教に空間を創造した、という仮説を展開する(posit)。

→私が、かねてから、明治政府が創造した国家神道なるものは、イギリスの(政府がキリスト教から「創造」したところの)英国教会の翻案、すなわち、「巧みな代理物」であった、と主張していることに沿ったジョセフソンの指摘であると言えるでしょう。(太田)

(続く)