太田述正コラム#6483(2013.9.30)
<キリスト教が興隆したわけ(その4)>(2014.1.15公開)

  ウ 実質的教祖たる聖パウロ

 キリスト教徒達は、もちろん、これら全てに巻き込まれたが、イエス自身の時代の直後において、パウロ<(コラム#337、1019、1204、1233、3100、3151、3616、4078、4884、5326、5388、5390、5402、5408、5414、5416、5422、5432、5566、6024、6146、6304、6365)>は、彼らが生き延びられるようにするための種を蒔いた。
 その結果、実際には、皮肉にもキリスト教はローマ帝国内で栄えることになったのだ。
 パウロはもちろん、(ユダヤ人から見て)異邦人(Gentile)、すなわち非ユダヤ人、のための使徒だった。
 そして、これこそ、初期のキリスト教会において最大の議論になった点だった。
 すなわち、キリスト教徒になるためにはまずユダヤ人でなければならないのか、という・・。
 パウロは、否、と言った。
 行い(works)<(次のシリーズで説明(太田))>ではなく、信仰(faith)だけが問われるのだ、と。
 改めてロマ書(Romans)<(注16)>を読んでみると、パウロはこう言っている。

 (注16)「<ロマ書とも呼ばれる>『ローマの信徒への手紙』は『新約聖書』中の一書で、使徒パウロの手によるとされる書簡・・・の一つである。・・・<その背景だが、>もともとローマの<キリスト教>共同体はユダヤ人キリスト教徒によって設立されたのだが、49年のクラウディウス帝によるユダヤ人のローマ追放によって異邦人キリスト教徒が主導権を握るようになっていた。54年にクラウディウス帝が死去してユダヤ人がローマに戻ってくると、ユダヤ教の習慣の遵守をめぐって争いが起きるようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E4%BF%A1%E5%BE%92%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99

 「ユダヤ人とギリシャ人<等>の間に違い(distinction)などない。同じ神(Lord)が全員の神なのであって、彼に呼びかける者全員に対して寛大なのだ。なぜなら、「この神の名を呼ぶ者は全て救われる」からだ」(10:10-11)と。」(E)

 優しい(gentle)けれど(ユダヤ人から見て)異邦人(Gentile)ではなかったところの、かつ、大人しくて(meek)温厚な(mild)イエスは、(にもかかわらず、彼の同輩者達にとってこの世で一番聖なる場所を叩き壊すことを時々やってのけたが、)パウロによって、・・・絶対者(Absolute)へと変貌させられた。
 フランシス・スパッフォード(Francis Spufford)<(注17)>は、全般的には穏やかではない本、『弁解せずに(Unapologetic)』の中で、使徒書簡(epistles)<(注18)>は諸福音書に先行している、と主張している。

 (注17)1964年〜。イギリスの著述家。ケンブリッジ大卒。Unapologeticは2012年出版。
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Spufford
 (注18)パウロによるとされるものはパウロ使徒書簡(Pauline epistles)、それ以外のものは一般使徒書簡(catholic epistles)として知られている。新約聖書の中に、前者は13、後者は8、収録されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Epistle

 すなわち、イエスをキリストにして神とする観念は、不可知論的英国教徒達のおべっかつかいにして腰抜けの(soft-soap milquetoast)愛すべき<イエスの観念>に先立っているのだ。
 <ただし、>パウロの言葉を、彼自身が自分自身の諸信条とイエスの言葉群との間に線引きをすることにとりわけ非常に注意深かった以上、特定の諸教会に対する特定のその時々の特定の勧告としてではなく、永遠のもの(eternal)と受け止めることには重大な問題がある。
 この点に関しては、教会それ自体はパウロの流暢な言葉群を洗練させたり再定義したりするというのに、新無神論者(New Atheists)<(注19)>の方は、現実には、<キリスト教>原理主義者達と同じ位<聖書>直解主義的(literalist)だ。

 (注19)英米を拠点として、リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)<(コラム#2629、3616、3718、3721、5284、5561)>、ダニエル・デネット(Daniel Dennett)<(コラム#1096、3718、5284)>、サム・ハリス(Sam Harris)<(コラム#5284)>、クリストファー・ヒッチェンス(Christopher Hitchens)<(コラム#727、1096、2023、2044、2629、2758、3953、4204、4403、5179、5284、5296、5557、6447)>らが始めた、攻撃的な無神論運動の賛同者達。
http://en.wikipedia.org/wiki/New_Atheism

 まさに、パウロは、権力への協力者(collaborationist)と見ることもできる一方で、彼の書き物群の中に<許しを強調する等、>古代世界で最もリベラルな諸感情を見出すことができるのもまた事実だ。
 彼を、単に自分の出世(advancement)を目論むマキャベリストたる広報人間であったとする観念は、彼の書き物よりも我々の諸不安をより反映しているように見える。・・・
 1世紀には、数えきれないほどの神格化、神話、カルト、宗教改革者、神秘的祭儀、そして神学的に鼓吹された急進派が存在した。
 しかし、このうち、自分で蘇るところの人にして神、を呼び物にする(feature)ものは<キリスト教以外には>皆無だし、そのメッセージの中で許し(forgiveness)をかくも中心に据えるものも<キリスト教以外には>皆無だ。」(A)

→最後のセンテンスの前段こそ、私が小学生の時に初めてキリスト教に接した時に荒唐無稽だと思った点の最たるものです。私にはこんなひち面倒な手練手管を弄する神を信仰するキリスト教が世界一信徒数の多い宗教になった理由がどうしても分からないでいます。
 また、後段、すなわちキリスト教の許し=愛=利他主義こそ、私が比較的最近指摘し始めたところの、キリスト教が近現代の人類に筆舌に尽くせぬ大惨禍をもたらしたところの恐ろしい核心的教義なのです。(太田)

(続く)