太田述正コラム#6479(2013.9.28)
<キリスト教が興隆したわけ(その2)>(2014.1.13公開)

 (2)キリスト教のありきたりさ

 「<オグレイディの言うような>イエスに関する新約聖書の物語と他の諸神話との間に類似性があることは、新しい洞察というわけではない。
 マックス・ミュラー(Max Muller)<(注3)>とジェームズ・フレイザー(James Frazer)<(注4)>も、エジプト、ギリシャ、そして北欧(Norce)における、死にそして生き返る神の諸物語との類似性を分析した。

 (注3)フリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Mu(←ウムラウトが付く)ller。1823〜1900年)。「ドイツ・・・に生まれ、<英国>に帰化した・・・インド学者(サンスクリット文献学者)、東洋学者、比較言語学者、比較宗教学者、[インド学]者。・・・父は詩人として知られるヴィルヘルム・ミュラー(シューベルトが曲をつけた『美しき水車小屋の娘』『冬の旅』が有名)。」ライプツィヒ大学卒、同大博士。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC
http://en.wikipedia.org/wiki/Max_M%C3%BCller ([])
 なお、彼を、日本語ウィキペディアはもっぱらアーリア(Aryan)概念の創始者の一人としているのに対し、英語ウィキペディアはもっぱらトゥラン(Turanian)(ウラルアルタイ(Ural--Altaic))概念の創始者としているところ、恐らくは後者が正しいのだろう。
 (注4)Sir James George Frazer。1854〜1941年。「社会人類学者。スコットランドのグラスゴー出身。原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した『金枝篇』(The Golden Bough, 1890年〜1936年)の著者。」グラスゴー大で学び、ケンブリッジ大卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC

 より最近では、ゲザ・ヴェルメシュ(Geza Vermes)<(注5)>が、福音書の諸物語(accounts)と、死海文書(Dead Sea scrolls)を通して再構築されたところのハニナ・ベン・ドーサ(Hanina ben Dosa)<(注6)>及びエッセネ(Essene)<(注7)>コミュニティの諸物語(stories)との間の驚くべき諸近似を記述した。

 (注5)1924〜2013年。ユダヤ系ハンガリー人たる英国の学者兼カトリック僧。死海文書、アラム語、イエスの権威。ベルギーのルーヴェン(Leuven)・カトリック大(コラム#6300)卒。同大博士。
http://en.wikipedia.org/wiki/G%C3%A9za_Vermes
 (注6)「<(70年の(太田))>エルサレムの神殿崩壊直後に活躍したラビ・・・。彼はガリラヤ・・・に住み、・・・彼にまつわる奇跡伝説<が>多く残されてい<る>。」
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/055.htm
 (注7)「<BC>2世紀から<AD>1世紀にかけて存在したユダヤ教の一グループの呼称。・・・ファリサイ派から発生したと考えられるが、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点で、民衆の中で活動したファリサイ派とも一線を画している。・・・<その、>「神殿によらずして神に仕えることができる」という発想はキリスト教の発生に影響を与え、神殿崩壊後のユダヤ教を支える思想的な基礎になった。新約聖書には、ファリサイ派と・・・神殿を権威の根拠としていた・・・サドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネやイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%8D%E6%B4%BE

 イエスは、AD1世紀において、「神とされた(deified)人間」であった唯一の者ではない。
 オグレイディは、その最後の言葉が「ああ、朕は朕が神になりつつあると思う」であったとされるウェスパシアヌス(Vespasian)帝<(コラム#4009、5386)>によって最も良く要約されているところの、死による神格(godhood)への皇帝の上昇(ascension)、すなわち神格化(apotheosis)の伝統を創始した、アウグストゥス・カエサル(Augustus Caesar)から<話を>始める。
 アウグストゥスは、神(divinity)への唯一の政治的任命者ではなかった。
 メロエのアマニレナスは、BC21年にエジプトのローマ軍を打ち破ったが、女神だと考えられていた。
 なお、エジプトには、ファラオ達を神たる王達とする伝統があったところだ。・・・
 支那では、簒奪者の王莽が、皇帝を「天子(Son of Heaven)」<(注8)>とする観念を再び描写することで、<自分の>権力への主張に迫力を付けた。」(A)

 (注8)「王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%90
 「『孝経緯』には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである。この使い分けは現実の場面において、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の玉璽」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の玉璽」を押している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BC%A2

→オグレイディは、天子が謙譲語であって、臣民に対しては用いられなかったことを知らないのでしょう。(太田)

 (3)ユダヤ教の特異性

 具体的な形を与えられ(incarnate)ようと天上の存在であろう(stellified)と、神々の華やかな勢揃いは、パレスティナの諸出来事の枢要な背景幕を形成した。
 ローマはシンクレチズム(混淆主義)にとりわけ長けており、地方の神々を取り上げ、自分達自身の諸神々に準え(match)たり、彼らを順応(accommodate)させるために<ギリシャの>オリンポス山の<神々の>特約支店網(franchise)を拡大したりした。
 <ところが、>ユダヤ属州においては、この戦略は失敗した。
 モーゼの十戒の第一は多神教の禁であり、他の被征服民達とは違って、ユダヤ人達は、<ローマに>屈服することを拒否したのだ。」(A)

 「オグレイディは、ユダヤ人達は、ローマ帝国の全ての被従属民のうち、最も難しい人々だった、としている。
 誰が神であるかに関しては一切妥協することがなかった。
 <そもそも、彼らの>神はローマの汎神殿に好意を示すことなどできなかったのだ。
 神が皇帝自身である、などということは到底ありえなかった、ということだ。
 (これは、キリスト教なるセクトに係る問題でもあった。)
 とはいえ、しばしば、若干の妥協が行われた。
 だからこそ、ユダヤ人のヘロデ大王(Herod the Great)<(注9)(コラム#1791、3888)>は、イエスの時代に至るまで、ローマに対して忠誠を示した限りにおいて、パレスティナを統治することができたのだ。

 (注9)BC73?〜BC4。「共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ地区を統治したユダヤ人の王(在位:<BC>37年〜<BC>4年)である。イスラエルレビ族が祭司王として統治したハスモン朝を破って、ユダヤ人ヘロデが統治するヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築した。・・・ヘロデは都市計画において業績を残した。人工港湾都市カイサリア、歴史に名を残す大要塞マサダ、アウグストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都市ヘロディオン、マカイロスなどはすべてヘロデの時代につくられた計画都市である。・・・しかし、なんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのはソロモンを超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築であった。・・・<しかし、>エルサレム神殿に金の鷲をすえようとしたため、ユダヤ教指導層と対立することになった。・・・<このこともあって、ヘロデの死後、しばらくして>ユダヤはローマ帝国の直轄領となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%87%E5%A4%A7%E7%8E%8B

 しかし、ヘロデが行き過ぎた場合に、厳格なユダヤ人達・・狂信者(zealot)達、及び実にファリサイ派までが異議を唱えるとなると、ローマは、ピラトゥス(Pilate)<(注10)(コラム#1186)>のような自分達自身の人間をこの属州を統治させるべく任命することを躊躇しなかった。

 (注10)ポンティウス・ピラトゥス(Pontius Pilatus)。属領長官:26〜36年。「ユダヤ人に対して常に強圧的・挑戦的な態度で臨み、エルサレム神殿での伝統的なユダヤ教の祭祀を侮蔑・挑発することもしばしばであり、ユダヤ人の対ローマ感情を悪化させた。最後にはサマリア人の不当な殺害を理由に住民からシリア総督に直訴され、罷免されている(ローマ帝国では被支配住民に総督のリコール権があった)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9

 しかし、何と言っても、最大の論議が起こったのは土地と神殿に関してであり、この点については、ユダヤ人達は妥協しなかった。
 ローマは、もう沢山だとして、70年から始まったユダヤ戦争<(66〜74年、115〜117年、132〜135年)(コラム#5379、5386、5416、5852、6150)>中に、ユダヤ国家とエルサレムの神殿に立脚していた<ユダヤ教の>宗教体系(religious edifice)全体を計画的に破壊した。」(E)

(続く)