太田述正コラム#6473(2013.9.25)
<英国の植民地統治(その5)>(2014.1.10公開)

 (4)間接統治

 「1858年にヴィクトリア女王が布告したところの、私的領域、とりわけ宗教の領域、への不干渉の教義・・・に基づき、1862年から72年にかけて、「法的及び行政的」諸改革を通じて私と公の分別を課すこととなった。
 これらの諸改革を通じて、(公認された宗教集団単位で)「異なった個人情報(personal code)」が公布された。
 そして、公の分野(sphere)においては、「イスラム法」は刑事諸裁判では適用不可とされ、また、あらゆるペルシャ称号(Persian title)<(注9)>群が廃止され、更に、「植民地諸裁判所でのイスラム教徒たる補助者達」が禁じられ、「単一の法的官僚制」が制度化された。」(A)

 (注9)List of Iranian titles and ranks
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Iranian_titles_and_ranks
を見たが、インド亜大陸において、いかなるイラン(ペルシャ)称号が用いられていたのか、分からなかった。

 「・・・<これにより、>社会的かつ文化的諸アイデンティティと諸差異が形作られただけでなく、それらは政治化され、制度化され、そして時には、植民地化された諸社会の内部で創造されたりすらした。・・・
 「これが、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の区分(division)を恒久化(seal)し、更に、イスラムのコミュニティを、それを構成するところの、それぞれ自身の法の符合体系(code)を有する「諸宗派(sect)」に分解した」と。
 マムダニは、<英領>マラヤ、及び、オランダがコントロールしていたインドネシアで植民者達が累次の分割統治諸戦術を導入した、その他の事例を提供し始める。・・・
 部族を「共通の言語を持つ民族(ethnic)集団」とする観念が植民地主義より前から存在していたことは事実だが、それが、土着民と非土着民が区別され、かつ前者が後者に比べて体系的により有利に<(ママ(太田)>差別されるところの、行政的存在としては存在してはいなかったのは(、著者が強調するように、)間違いない。・・・
 血縁関係(kinship)を超えて、言語、住所、そして職業が、植民地化より前の諸アイデンティティと政治的諸組織を定義するにあたって枢要な役割を歴史的に演じてきたというのに、今日における大部分の民族的諸範疇、とりわけ、ハウサ(Hausa)、ヨルバ(Yoruba)、そしてイボ(Igbo)<(注10)>、は、ナイジェリアにおける植民地国家の形成の中で<、もっぱら血縁関係に着目して、>現実には創造されたのだ。」(D)

 (注10)「ナイジェリアではヨルバ人・イボ人と並ぶ三大民族のひとつであり、その中でも最も人口が多いため、建国以来ナイジェリアの実権を握ってきた。・・・ハウサ人のほとんどはイスラム教スンニ派の信者であ<る。>・・・<英国統治下で>教育などがハウサ人地域にほとんどいきわたらなかったため、南部のイボ人やヨルバ人に比べ植民地政府の官吏を輩出することができず、南北対立の原因のひとつとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B5%E4%BA%BA
 「ヨルバ人<は、>・・・ナイジェリアの南西部に集中して居住する。・・・キリスト教60%、イスラム教30%」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%90%E4%BA%BA
 「イボ人<は、>・・・ナイジェリア東南部に住み、ナイジェリアの総人口の約20%を占める。・・・イボはキリスト教と欧州式の教育の取込みに熱心な民族の1つで、イギリスからは決断力が優れていると映った。イギリスによる植民地支配の下で、ナイジェリアの主要なエスニック・グループの内部の多様性は徐々に失われ、ハウサやヨルバなど他の大きい民族集団とイボの違いがより先鋭化されるようになった。」[ビアフラ共和国・・・は、1967年にナイジェリアの南東部に置かれていた東部州が独立宣言したことに伴い樹立されたイボ族を主体とした政権・国家。1967年5月30日から1970年1月15日まで存続した。]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9C%E4%BA%BA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A9%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD ([]内)

 「マムダニは、英領インドから蘭領東インドに至るまで、植民地当局は、とりわけ、それを通じて土着民達と入植者(settler)達が法的に区別され、異なった統治をされ、切り離された社会的かつ政治的諸運命に閉じ込められるところの、二つの異なった差別の枢軸群・・「人種(race)」と「部族(tribe)」・・に立脚していた、と主張する。
 マムダニは、更に、植民地直接統治から植民地間接統治への遷移についても主張する。・・・
 1858年に、ヴィクトリア女王は、インドにおける不干渉の教義を宣告した<が>・・・この教義は、表面的には、慣習的諸慣行を保全することを優先すべく同化的諸プロジェクトを放棄することでもってこの地域における植民地コントロールを水で薄めたけれど、マムダニは、間接統治はその反対を達成した<、すなわち、コントロールはむしろ強化された>ことを示唆する。
 というのも、「慣習の境界、内容(substance)、権威を定義する大権」は、占領当局の諸権力に巨大な裁量の余地(scope)を与えたからだ。・・・
 <占領当局は、>対土着民政策、歴史編集、そして法的・行政的諸変化、という三つ叉戦略を通じて、「植民地国家は、国家が強制した<植民地>内部での差別のシステム・・それを植民地国家は伝統の外套を纏ったものであると主張した・・を創造することによって、多数の行政的に操縦された政治的少数派群へと被植民地化された多数派を効果的にバラバラにした」。
 マムダニは、ベルリン会議の後におけるアフリカ諸植民地の事例を用いて、入植者対土着民、そして、市民法対慣習法、という類似の(analogous)二分法に結び付けられた(bound to)ところの、人種と部族が、どのように、植民地国家によって、政治化され、政治的に都合の良い(convenient)2つのアイデンティティとして形作られ、出現したかを論証する。・・・
 人種/部族二分法は、植民者と被植民者を区別したというよりは、非土着民を土着民から切り離し、地理的起源を特権化することによって、移民の歴史を蔽い隠した。
 非土着民は、諸人種に分類され、<彼らが>共有する市民法に羈束されるのに対し、いわゆる原住民諸集団は、各々が区々の一連の慣習的諸教義によって統治される、諸部族に所属した。
 諸人種<共通>の市民法は時間<の経過>に適応するものと概念化されたのに対し、部族法は、積極的に伝統に特権を与えるものと考えられたとともに、あらゆる変化は純粋な慣習を捻じ曲げるもの(corruption)とみなされた
 この文脈の中で、メインの著作は新しい種類の国政術(statecraft)の基盤であると理解することができる、とマムダニは主張する。
 植民地の指導者達にとっては、彼らの被治者達を、保全する必要があって進歩することのできないところの、静的でかつ区々の部族的諸集団として固定(fix)する統治機構(apparatus of rule)を恒久化することは、疑いもなく都合がよいことだった。・・・
 <こうして、>植民地の被治者達を互いに競わせることで、諸植民地当局は、自分達から<被治者達の>注意を逸らせることに成功した。
 もはや反乱の標的ではなくなったところの、植民地の指導者達は、被治者達を自分達の贖罪の羊へと作り変えることに成功したのだ。」(B)

(続く)