太田述正コラム#6442(2013.9.11)
<改めて尖閣問題について(その4)>(2013.12.26公開)

 (4)明代の『湘西紀行』『東西洋考』『盟鴎堂集』

 「<表記史料>によると、・・・1616年・・・日本から台湾征討のため派遣された使者明石道友が漂流し、福建沿岸の東湧島(今の馬祖列島東端)に停泊した。
 その際、明国の偵察員に対し「大明の境界に入らず」(明国の領土には立ち入っていない)と述べた。
 明石は出航前にも、長崎代官から「天朝の一草一粒をも犯すを許さず」(明国の領土に立ち入るな)と厳命されていた。
 <いしゐ>准教授は「明国の領土を犯さないように、東湧から東が無主地だと事前確認した上で渡航したことを史料は示している。当時の尖閣航路は季節風を利用する帆船の一本道。その西の出入り口に東湧が位置するため、尖閣航路全体を無主地として日本側が確認していたことが分かる」と分析した。
 <そして、>1895年に日本政府が尖閣を領土に編入したことについて「明治の確認は決して一夜づけではなかったことが明らかになった。中国側の「盗んだ」などの主張は全く成り立たない」と強調した。」(八重山日報2013.3.17)

→(「東湧から」は「東湧より」の方が紛れがなかったと思いますが、)いしゐ氏の指摘にはここでも説得力があります。(太田)

 (5)琉球国史書『球陽』

 「『球陽』の記述<に基づき、>・・・香港の尖閣研究者・鄭海麟氏は、英国船サマラン号が1845年、尖閣諸島を測量するにつき、琉球国駐福州琉球館を通じて福建省(清)に申請し、許可を受けた」と主張している。・・・
 <こ>の主張は、<この史料>の記述を誤読・曲解したものだ。『球陽』によると、この時サマラン号は清から那覇に渡航する途中で、八重山・宮古と尖閣を測量した。
 サマラン号は、清から渡航する前に、英国領事館を通じて琉球館に対し「島々を測量したい」と一方的に通知し、八重山などに到着するや測量を開始した。
 その情報は那覇にもたらされ、那覇当局は英国船に対し「迷惑だから測量を停止してほしい」と求めた。英国船はある程度まで測量を終えると、那覇当局の要求に従って測量をやめて琉球国を離れた・・・。・・・
 英国船は清国から渡航して来たので、事前に清国駐在の琉球館に通知したというだけだ。
 鄭海麟氏は、那覇の琉球国政府に直接通知せずに、福州の琉球館に通知したのは、尖閣が清国に属するからだと主張しているが、清国に滞在中に、清国駐在の琉球出先機関に通知するのは当たり前だ・・・。・・・
 琉球館は、福建当局にも通知について報告した。さらに那覇当局は、一度報告した以上、事実関係を明らかにする必要があるとして、事後に琉球国王の名義で追加報告した。鄭氏に言わせると、尖閣が清国領土だから福建側に報告したのだ、となる。・・・
 しかし、そもそも、『球陽』のこの箇所には、尖閣については全く記載されていない。ただ英国側の記録には尖閣を測量したと書かれている。そのため鄭氏は、英国側の「島々を測量したい」という通知は尖閣を含むものだと決めつけている。しかし仮に尖閣を含むならば、琉球館に通知したのは、尖閣が琉球に属すると英国側が考えたからだ<、ということになってしまう>・・・。・・・
 <なお、>英国船が尖閣を測量したことを琉球側は知らなかったか、もしくは無関心だったので、琉球側から清国への報告文には尖閣のことは書かれていない。・・・
 結局これは、逆に中国側の主張を弱める資料ということ・・・だ。」(八重山日報2013.5.31)

→完璧にいしゐ氏の言う通りですね。
 ただ、琉球当局が、清が宗主国であるとのタテマエを通していることは驚きです。
 それだけに、明や清が、琉球が実は薩摩藩(日本)を宗主国としていることを知っていたこと(下出)が重要になります。(太田)

4 琉球の帰属(参考)

 「1617年、日本から福建省に渡航した徳川幕府の使者明石道友<(注)>に対し、福建省の海防と外交の担当者だった韓仲雍・・・は<、明石への尋問の過程で、>「汝の琉球を併する、及び琉球のひそかになんじに役属するは、また皆、わが天朝の赦前の事なり」(日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことは、3年前の皇太后崩御時に明の皇帝が大赦を行った前の出来事だ)と発言。8年前の琉球侵攻は、皇帝による「大赦」の対象であるとして不問に付し、公式に容認した。・・・

 (注)「<台湾>が歴史に浮上するのは・・・おおよそ16世紀半からで、当時は倭寇(日本や明国の海上交易勢力)の交易中継地となり、17世紀に入るとオランダ人やスペイン人も入殖してくるのだが、それに先立って支配権を確立しようと試みたのが、幕府を開いた直後の徳川家康だった。
 1609年には肥前領主の有馬晴信の船団を派遣し、北部を調査させたが、得るものなかった。
 ついで1616年には長崎代官の村山等安に13隻の船に4千の兵を乗せて出征させたものの途中で台風に遭って船団は散り散りとなり、3隻だけが台湾北部に到着した。しかし100人から200人が原住民に包囲され、自決するなどでさんざんな目に遭い、撤退するが、そこでの生き残りの1人が明石道友である。
 一方、はぐれた7隻は台湾対岸の明国福建省へと向かったが、豊臣秀吉の領土拡張政策以来、日本を警戒する沈有容率いる明の軍船と交戦となり、1隻が沈められている。沈有容はこの戦功により福建水師提督に任命された。
 そうしたなか、一隻が・・・現在の馬祖列島東端・東引島<の>・・・<支那>沿岸から約40キロ・メートルの・・・東湧島にたどり着いた。そこで偵倭官である董伯起が漁民に扮して接触したところ、身分がばれて捉えられ、日本へと拉致された。だが村山等安は明国との交易を求めるため、翌年董伯起を鄭重に送還することとし、航海の指揮を明石道友に取らせたのだった。
 明石道友は福建省黄岐に至って董伯起を引き渡し、そこで沈有容や海道副使韓仲雍の取り調べを受けることになった。」
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2023.html

 <いしゐ>氏によると、琉球国の帰属問題をめぐり、明国が公式に日本帰属に同意していたことを論じた研究はこれまでにないという。」(八重山日報2013.6.4)
 「<上記>記録は・・・「皇明實録」(・・・中央朝廷の議事録)の・・・1617年・・・8月1日の條に見える。」(同上2013.6.5)
 「<韓仲雍は、以上等を>中央朝廷にも報告したのである。・・・それに対する皇帝の返事は「確議して速聞せよ」(しっかり議論して速やかに報告せよ)であった。肯定的方向の返事である。少なくとも否定していない。・・・
 中華思想を原則とする明国だが、琉球を属国としていたのは形式だけなので、派兵して薩摩を討伐しようにも尖閣航路すら掌握しておらず、やむを得ず迎合したのである。中華思想なるものは虚構であって、歴史の現場に適用できなかったことが多々ある。その好例がこれである。・・・
 <なお、>「役属」とは課税や兵役などを以て服属したことを指す。役属の主語は琉球であり、琉球が半ば主動的に日本の領土となったものと韓仲雍は理解している。」(同上2013.6.6)
 
→さすがに中共も、琉球の領有権までは公式には求めていませんが、いしゐ氏は大変興味深い史料を発掘したものです。(太田)

5 感想

 史実と論理では日本政府の主張に軍配が上がりそうですが、心情的には台湾・中共側の主張もよく分かります。
 まずは、言論の自由がある台湾の学者等との議論を深めて欲しい、と思います。

(完)