太田述正コラム#6441(2013.9.9)
<改めて尖閣問題について(その3)>(2013.12.25公開)

 (2)郭汝霖著『石泉山房文集』(1561年)

 「『石泉山房文集』<の中に>・・・郭汝霖が・・・<琉球から>帰国後に琉球への航海中の模様を・・・<記して明の>皇帝に提出した上奏文・・・<が>収められてい<るところ、そ>・・・のなかで「行きて<(1561年)>閏5月初3日に至り、琉球の境に渉る。界地は赤嶼(大正島)と名づけらる」と記していた。現在の中国は<尖閣諸島の東に位置する、この>大正島を「赤尾嶼」と呼んでいる。
 <いしゐ長崎純心大>准教授によると「渉る」は入る、「界地」は境界の意味で、「分析すると、赤嶼そのものが琉球人の命名した境界で、明の皇帝の使節団がそれを正式に認めていたことになる」と指摘している。」(産経新聞2012.7.17)
 「<ところで、>界地たる赤嶼そのものは琉球域内なのか域外なのか。それはまさしく域内でも域外でもなく、ただ界なのである。それが原文そのままの理解である。・・・但し界だと定めたのは琉球の人々だったはずで、且つ界外は無主地であるから、現代法に照らせば界そのものは琉球の領有である。・・・
 <その理由は次の通りだ。>
 使節船の航海が、記録にのこる最初から最後まで琉球人の導きにたより切りだったことは、・・・時の国士舘大教授・奥原敏雄氏・・・らが40年前に論じ<ている。>・・・<だから、>この「界」は海を知らぬ郭汝霖個人の認識ではなく、海路案内をした琉球人の認識である<はずなのだ。>」(八重山日報2012.8.4)
 「<いしゐ>准教授の調査ではこのほか、1683年に派遣された清<初期>の琉球使節、汪楫が道中を詠んだ漢詩で「東沙山を過ぐればこれ閩山の尽くるところなり」《現在の台湾・馬祖島を過ぎれば福建省が尽きる》と中国は大陸から約15キロしか離れていない島までとの認識を示していたことも分かった。
 <ちなみに、>その後に勅命編纂された清の地理書『大清一統志』<では>台湾の北東端を「鶏籠城(現在の基隆市)」と定めていたことが、すでに下條正男・拓殖大教授の調べで明らかになっている。」(産経新聞2012.7.17 前掲)
 「<すなわち、いしゐ>准教授によると、・・・<明代の>中国領の東端は馬祖島、琉球領の西端は大正島だったことになる。
 <いしゐ>准教授は、「中国はこれまで、大正島と<その東に位置する>久米島の間に(<明>と琉球の)国境があったと言っていたが、主張が崩れた。・・・」と強調した。」(八重山日報2012.8.1)
 「チャイナ側<は>・・・赤嶼と<その東に位置する>姑米山<(久米島)>との間<に>中<(支那)と>外の界<があると主張してきた。>・・・<しかし、>中外の界・・・の記録が・・・釣魚列島・・・のはるか西にも有ることを、かつて喜舎場一隆氏(時の琉球大教授)が明らかにした。チャイナ側の立論は<本来>そこで潰え<るはずだっ>たのだが、西の界・・・を全て無理やり赤嶼の東に存在するものとこじつけて延命をはかり、いつまでもやめようとしない。今次の<私(いしゐ)の>新見解により、最も基本的な史料とされる郭汝霖使録の赤嶼が、チャイナ側から琉球側にころぶので、<チャイナ側の>「中外の界」説のこじつけが更に難しくなる。」(同上2012.8.5)

→いしゐ新説はなかなか説得力があります。(太田)
 
 (3)明国軍事諸『籌海図編』(1461年)中の「沿海山沙圖」

 「明国で1561年に書かれた軍事書「籌海図編」には「沿海山沙圖」という大陸沿岸の島嶼図を収めている。「山沙」とは島嶼を指す。その中に尖閣諸島の古名「釣魚嶼」などが記載されている。「籌海図編」が軍事書であることを根拠として、中国政府は1970年代から、尖閣諸島を明国の海防管轄範囲と主張。最近では・・・この見解が公式採用されている。・・・
 <いしゐ>准教授・・・によると、1461年、明国で勅命により刊行された「大明一統志」には、福建省と浙江省の東端が「海岸まで」と明記されており、尖閣諸島は明確に国外だった。
 一例として福建省福州府の項には「東のかた海岸に至る一百九十里」と記されている。190里(現在の約100キロメートル)は、福州の本府所在地から海岸までの距離を示しており、明国の領土は海岸まで、尖閣は国外であったことが分かる。・・・
 <いしゐ>准教授は「海岸以東が国外である以上、『山沙図』即ち島嶼図の定義そのものが国外図というに等しい」と話す。
 <ただし、いしゐ>准教授によると、明国では海岸を守るための駐屯地を、国外の近海島嶼に点在させていたという。
 国外の駐屯地は、・・・「籌海図編」に「福建兵防官考」の項目で列挙され、ほぼ銅山、瞞戞南日、烽火門、中左(厦門)、金門、烈嶼、壁頭、五虎門(官母嶼)、の9カ所だけ。いずれも沿岸10数キロメートル以内の範囲であり、福建から約400キロメートルの尖閣諸島は明らかに範囲外だ。
 遠く台湾との間にある澎湖群島も、例外的に一時期駐屯地となっていたが、それでも福建沿岸から約200キロメートルの位置に過ぎず、尖閣諸島までの距離の半分だ。」(八重山日報2012.10.6)

→哨なる臨時駐屯地(コラム#6436)すら設けていなければ領土ではない、とは言えません。
 尖閣諸島に日本は哨すら設けていないから同諸島は日本の領土ではないことになってしまうからです。
 明や清とは違って日本は先占をし、その旨を公示もしていることは確かですが、明や日清戦争直前の清が、近代国際法に則った要式行為を行っていなかったことを咎めるのはいささか酷ではないでしょうか。
 「沿海山沙圖」には、明国から見て琉球に属する「山沙」は描かれていないようであるところ、尖閣諸島は描かれているというのですから、同諸島を明は自分の領土であると考えていた、ということになりそうな気がします。
 これに関連し、駐屯地が置かれていた場所が、福建省等、特定の省に属してはいなかったとしても、だからと言って、明に属していなかったとは必ずしも言えないのではないでしょうか。
 明や清で、軍隊しかいない、つまり、住民がいないか、いても原住民だけで「本省人」がいない場所だって、軍の管轄下にはあったと見ることができるのではないか、ということです。(太田)

(続く)