太田述正コラム#6437(2013.9.7)
<改めて尖閣問題について(その1)>(2013.12.23公開)

1 始めに

 何度か申し上げているように、日本が抱える、尖閣問題のような領土問題に関しては、古文書を引き合いに出しての議論は基本的に意味がないのであって、条約の解釈・・尖閣問題の場合は下関条約によって日本に引き渡されたところの、旧清国領に尖閣諸島が入っていたのかどうかの解釈・・だけが問題なのです。
 もとより、上記清国領に尖閣諸島が入っていたかどうかを見極めるにあたって、その限りで古文書が引き合いに出されることはありうるわけですが・・。
 『學士會会報(September No.902 2013-V)』に、中野美代子北大名誉教授の「「中華民族」と国境線」というエッセイが載っていたことから、いしゐのぞむ(石井望。コラム#5697、5712、5714、5729、5735、5745、5754、5761、5825、5981、6436)氏から、ご好意で、私に大量に資料が提供されていた(コラム#6323)ことを思い出し、尖閣問題を改めてコラムにすることを思い立ちました。
 なお、提供を受けた「大量の資料」中、同氏が新聞に掲載されたコラムだけを使用し、同氏による論文は、(まことに不調法ながら、)読むのに骨が折れるので、使用しなかったことをお断りしておきます。

2 下関条約直前の尖閣諸島(いしゐ氏の指摘)

 例によって、引用文以外・・つまり、いしゐ氏の文章・・は旧字体・旧仮名遣いを新字体・新仮名遣いに改めてあります。

 「2012年・・・9月14日、・・・<尖閣問題で米国で博士号を取った台湾の>馬英九総統は・・・日本が尖閣を領有した西暦1895年から僅か23年前<の>・・・1872年・・・の成立著作「全臺圖説」・・・の中から、「釣魚臺」(今の尖閣諸島・魚釣島)の記述を発見したという。記述箇所に曰く、
 ・・・<(中略)>・・・。<その>文意は、「台湾東側の大海に島が有り、島名は釣魚臺という。大船十艘あまりが碇泊可能である。花蓮の海岸には小船を入れられる」となる。・・・
 <しかし、>この箇所は「奇來」(今の花蓮)の中で述べられていた。奇來は清国の領外であるから、釣魚臺も国外としての記載なのである。」(八重山日報2012.11.26)
 「<すなわち、>「全臺圖説」は・・・<清>国内の記述部分で・・・卑南以北の各社をとりて、全行して版図に収隷せよ・・・との建議を述べる。卑南とは台湾島の東南部である。その北の各社とは、花蓮の各村落を指す。領土編入の建議であるから、花蓮はまだ領土ではない。・・・
 <なお、「全臺圖説」の>成立年月は<馬総統の言う1872年ではなく、>・・・1873年6月から12月の間と推定できる。」(同上2012.11.29)
 「結局、馬英九総統は釣魚臺が国外だったと示す史料をみずから発表したことになる。」(同上2013.11.30)

→いしゐのぞむ対馬英九の勝負は、いしゐ氏の判定勝ちですね。
 ところで、この話は、本来、下出の話の枕としての意味しかないところ、馬氏が勝てばもちろんのこと、いしゐ氏が勝ったとしても、この話は、下出の話との合わせ技で、日本側に不利に働く可能性があります。(太田)

 「<もう一つ、>1852年の<清国の>官製地理書「葛瑪蘭庁(庁は旧字体(太田))志」<では、>・・・釣魚臺(尖閣)は「蘭界外」という一段に記載され、蘭(宜蘭)の境外すなわち清国外に釣魚臺が在ったことを示している。」(同上2013.11.27)」
 「では・・・花蓮は確かに国外なのか。・・・
 1874年・・・5月に至り、日本の西郷従道軍は<台湾>東側南部の清国外「牡丹社」地域に遠征した。・・・「台湾出兵」・・・である。清国外であるから清国との戦闘は無く、先住民との戦闘が行われた。このとき清国が台湾の東南部を「化外」即ち国外と位置付けたことが・・・清国の<諸>文書・・・に見える。化外の地は台湾全土だと勘違いされがちだが、主に東部だけである。・・・
 出兵後、同年10月に日清両国は条約を結び、日本はこれ以後台湾の東南部を清国領土とすることを認めた。・・・
 清国は、翌年・・・1875年・・・に至り、東南部のみならず花蓮まで清国の行政区画に編入することを決定した。そして「開山撫蕃」という武力侵攻を経て、ほぼ・・・1878年に花蓮の大部分を清国統治下に入れた。その<間、>・・・多数の先住民が殺され、残虐な酷刑も執行された。
 「開山撫蕃」以前にも少数の清国人が花蓮に侵殖していたが、違法とされていた。清国は台湾における国外入殖を禁じており、解禁したのは開山撫蕃と同じ・・・1875年である。・・・
 1878年前後に花蓮が清国の有となった後も、釣魚臺まで併せて清国となったわけではない。釣魚臺は花蓮とともに記載されただけであって、花蓮に属していたわけではない。
 その一証左となるのが、「開山撫蕃」とともに釣魚臺を記述した史料である。清国の・・・「臺灣地勢番情紀略」に曰く、・・・鶏籠山陰に釣魚嶼なる者有り、舟泊すべし、これ宜しく防を設くべし・・・と。陰とは北である。この著作は「開山撫蕃」即ち台湾東部侵攻による領土編入の史事を概論する。その中で「防を設ける」とは、同じく侵攻して領土に編入することを指す。「宜しく設くべし」とは未来の空想である。されば・・・1875年の開山撫蕃の後にも、釣魚臺は領土に編入されていなかったことがわかる。しかも「釣魚臺なる者有り」というのだから尖閣をほとんど知らない。
 知りもしないのに防衛を大言するのが中華思想であ<る。>」(同上2013.11.28)

→この話こそ、まさに核心部分です。
 清国は尖閣諸島について国際法上の先占の手続きこそしていないけれど、日本が台湾全土が清国領であることを認めた1874年の次の年の1875年の段階で、清国人・・役人か民間人か明らかではありませんが・・の著書に、尖閣諸島中の魚釣島が清国領であるかのような記述がある・・私には、「防を設ける」は、魚釣島が、全土が清国領であるところの台湾の一部であることを前提にした表現に読めます・・以上、それが事実に反することを具体的に指摘しなければならないのではないでしょうか。
 漢人的な大法螺に過ぎない、と片付けて済む話とは、私は思いません。
 それに、前出の「全臺圖説」において、花蓮の(項)中で釣魚臺が言及されている、ということは、花蓮が清国に帰属した(と日本が認めた)時点で釣魚臺も清国に帰属した、という解釈も成り立ちえます。
 そうだとすれば、「全臺圖説」に関し、馬説に立てばもちろんのこと、いしゐ説に立ったとしても、釣魚臺、すなわち尖閣諸島が無主物であった、という日本の主張には不利に働くのではないでしょうか。(太田)

(続く)