太田述正コラム#6328(2013.7.14)
<日進月歩の人間科学(続x32)(その8)>(2013.10.29公開)

  ケ 双極性障害

 双極性障害について、リーダーが指摘していること(コラム#6172)を振り返ってみましょう。

 「躁の人は、他の人々に対し、かなりの頻度で、成功裏に、特定の営み(scheme)や計画(project)に加わらせようと試みることがしばしばある。
 これは、私的な事業や一人での追求というよりは、しばしば、社会貢献(social good)を目的とするところの、より大きくて、より包摂的な(encompassing)努力(endeavour)なのだ。
 この人の諸行動がいかに利己的に見えようと、水平線のかなたには理想があるのだ。・・・
 躁の人は、そのふるまいの中で、<誰かに>借りがある(being in debt)との認識を示すことがあり、その人の躁の発症(episode)の利他的側面は、この借りを返すことが目的である可能性がある。・・・
 躁鬱的な衆生から、自分達が躁の時に実際にやったことを思い出すとどれだけぞっとするかを聞かされることは衝撃的だ。
 親友の一人の配偶者やパートナーへの性的な遭遇や性的な誘惑は、その時には全くもって自然なことのように見えるけれど、後になるとそれに押しつぶされそうになる<、というのだ>。
 <躁鬱の人の>躁の時の性的放縦は、社会的関係を規制する罪の意識の障壁が一時的に破砕されることを示している。」

 前段の「利己的に見え<る>・・・社会貢献<的ないし>・・・利他的・・・<な>営み」とは、ほぼ私の言う「人間主義」的な言動に該当すると思われることでしょう。
 後段は、不倫でも何でもオーライの性的逸脱行動すよね。(注12)

 (注12)比較的最近まで、英語のウィキペディアでは双極性障害の典型的症候として浪費を挙げていたのに日本語のウィキペディアでは挙げていなかった。
 最近チェックしたら、
 「7.快楽的活動に熱中: クレジットカードやお金を使いまくって買物をする、性的逸脱行動に出る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E6%A5%B5%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3
と、浪費をちゃんと挙げていた。

 ところが、人間主義的言動については、双極性障害に関する英語、日本語のいずれのウィキペディアにも言及がなされていません。
 私は、双極性障害者において、人間主義的言動という症候がかなり普遍的に存在することを指摘したリーダーに拍手喝采したい気持ちです。
 というのは、私の出会った双極性障害の疑いのある人々は、(私を含め、)人と積極的に付き合う時期と「人付き合いを避けるようになる」(注13)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A4%E7%97%85

 (注13)「双極性障害の<鬱>状態は単極性の<鬱>病と症状は似ており、完全に区別はできない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E6%A5%B5%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3 前掲
時期を交互に繰り返すという症候だけしか、全員に共通して見られる症候はなかったところ、躁期に人間主義的言動を行う、という(双極性障害の一般的な解説には出てこないところの、)特徴もまた、全員に共通して見られていたからです。
 (その人間主義は、大部分、私の掲げる大義ないし私自身に対して向けられていた次第です。)
 このようにして、人間主義的言動が双極性障害のかなり普遍的な症候かもしれないということを知った瞬間、私は、座禅、より一般的には瞑想、がもたらす心の状態と、と双極性障害の躁期における心の状態の類似性に気付きました。
 そして、前者は自分の意思で躁転させることであるのに対し、後者は勝手に躁転させられることではないかと考えるに至ったのです。
 すると今度は、躁転させられた時の典型的な症候として浪費や性的逸脱行動が挙げられているところ、これらと悟りとの関係が気になってきたのです。
 私の出会った双極性障害の疑いのある人は、実に、男性16人(うち強い疑いのある人は2人)、女性4人(全員強い疑いのある人)にのぼるのですが、このうち浪費が見られたのは、男性2人、女性4人(全員)・・うち1人は浪費の疑いにとどまる・・、また、性的逸脱行動が見られたのは、男性1人、女性3人です。
 (この16人に出会ったのは、いずれもここ数年の話です。)
 もとより、私は、これら16人とは基本的に読者として出会い、付き合いも基本的に読者としての付き合いに限定されていたことから、これら16人のうち、浪費や性的逸脱行動が見られなかった人も、私の知らないところで、浪費や性的逸脱行動に走っていた可能性は否定できません。

 (なお、性的逸脱行動が見られた3人の女性のうちの1人は、本人に全くその自覚がありませんでした。
 性的逸脱行動云々以前に、彼女には私に恋をしている、という自覚すらなかったのです。
 本人に全くその自覚がないというのに、なんでお前は勝手にそう「見」ているのかですって?
 まさか、プレチスモグラフ(コラム#6314、6316)を使ったわけではありませんよ。
 相手の客観的行動を踏まえた総合判断なのですが、最終的な決め手は、私の話を聞いている時の相手の目つきです。
 私は相思相愛経験が殆んどないという、まことにもって気の毒な人間なのですが、幸か不幸か、そのおかげもあり、もっぱら大昔のことではあるけれど、片思い経験と片思いされ経験は豊富です。
 私に片思いしている相手が私が話すのを聞いている時の目つきは、その場に第三者がいてもいなくても、押しなべて夢見心地でトロンとしているものです。話の内容などどうでもよく、同じ時間と空間を私と共有していることに恍惚感を覚えている状態、とでも言いましょうか。
 にもかかわらず、件の女性に、自分が性的逸脱行動に走っているという自覚がない、という奇妙なことがどうして起きたのかについても、このシリーズの執筆を通して初めて種明かしができたように思います。
 つまり、彼女は、私の説明したような意味での無性愛者だったと解すことができそうなのです。
 ちょっと待て。そもそも、何で、彼女がお前に恋をすることが性的逸脱行動なのか、また、彼女が無性愛者だとどうして分かったんだ、ですって?
 いやー鋭いですね。
 これは、仮にこの部分を永久非公開扱いにしたとしても、なお、色々差支えがあるので、お答えは控えさせていただきます。)
 
 このようなことからして、仏教で修行している人々が、消費を最小限に切り詰められ、性的行為を固く禁じられる生活を送るのは、雑念(煩悩)を払うことで、少しでも容易に悟りに到達するためであると同時に、それは、浪費や性的逸脱行為を伴う躁的なもの、ではないところの、真の悟りに到達するためでもあり、更に、悟って目出度く阿羅漢となった人々が浪費や性的逸脱行動をなお慎み続けるのは、悟りが不可逆的なものではないことから、それが躁的なものへと堕落してしまうことを回避するためである、と考えられるのです。
 そして、悟りが性的逸脱行動を伴う躁的なものへと堕落する危険性は、男性に比べて潜在的に性に貪欲な女性の場合、特に大きいことから、釈迦は、女性に悟らせること自体に懸念を抱いたのであろうし、より具体的には、悟った後に悟りが堕落してしまった女性達が、寄ってたかって、スーパースターであると同時に人間主義の権化である釈迦に恋をし、その恋を釈迦への人間主義的奉仕合戦・・偽りの人間主義・・の形でぶつけてくることを恐れたのではないか、と私は想像をたくましくするに至っているのです。
 とまれ、釈迦が、最終的に女性に悟りを解禁したことは、女性が「正しく」悟ることは可能である、ということであり、これは、双極性障害の治療に、薬剤服用やカウンセリングとともに、座禅/瞑想も有効であることを示唆するものです。

3 終わりに

 余りにも長くなったので、本シリーズをこのあたりで中締めにしたいと思いますが、米国において、一流大学で、裕福な家庭で育った、しかも優秀で学業に励む女子学生が中心となり、彼女達がイニシアティヴをとったワリキリセックス・・hooking upと言うらしい・・を繰り返す大学生生活、が流行し始めているようです。
http://www.nytimes.com/2013/07/14/fashion/sex-on-campus-she-can-play-that-game-too.html?hp&_r=0&pagewanted=all

 本来、この分野でも超先進国であるはずの日本における、夜這い文化や遊郭の復活の一日も早い実現が待たれます。
 ま、それより「独立」の方が優先順位は高いけれど・・。

(完)