太田述正コラム#6322(2013.7.11)
<日進月歩の人間科学(続x32)(その5)>(2013.10.26公開)

 日本には歌垣(うたがき)の風習もあります。
 これは、夜這いとは似て非なるものです。
 
 「古代日本における歌垣は、特定の日時と場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰に立つ行事であり、互いに求愛歌を掛け合いながら、対になり恋愛関係になるとされる。・・・
 現代の中国南部および東南アジア北部で見られる歌垣を概観すると、祝祭日(多くの場合、播種前の春先)の夜に10代半ばから20代の男女が集会し、互いに求愛歌を掛け合いながら、対になり恋愛関係になる、といった類型が多い。このように、歌垣は未婚男女の求婚の場という性格が強く、また、集団での成年式に起源すると考えられている。・・・
 <日本では、>歌垣はその後の歌合、連歌に影響を及ぼしたとされている。現代にも歌垣の残存は見られ、沖縄の毛遊び(もうあしび)に歌垣の要素が強く認められるほか、福島県会津地方のウタゲイや秋田県仙北地方の掛唄にも歌垣の遺風が見られる。・・・
 歌垣と同様の風習は、中国南部からインドシナ半島、フィリピンやインドネシアにも存在する。このことから、古代日本の文化は、東南アジアから中国南部にかけての地域と、一体の文化圏を築いていたという見方もある(照葉樹林文化論など)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%9E%A3

 私の仮説は、歌垣は、弥生人が持ち込んだところの、成人式を兼ねた集団見合いの行事であったところ、それが、縄文流の夜這い文化の影響を受けて、年齢を問わぬ集団見合いの行事へと変容した、というものです。
 ただし、それは、あくまでも、家父長制を前提とした一夫一婦制の堅持と女性の性への貪欲さの顕在化封じ、という枠内での変容だった、と見るわけです。

 さて、武士は弥生人系であっただけでなく、貴族とは違って弥生人的な言動をとるべきものとされており、江戸時代に至って、不義密通は死罪とされるに至ります。
http://kyotokawaraban.net/roziurasannsaku/dai26/dai26_osan.html
 このような背景の下、武士であった貝原益軒(1630〜1714年)は、儒教/漢人の女性差別の日本への直輸入を図り、七去三従を謳った『女大学』(『和俗童子訓』のその巻の五の「女子を教える法」が名を替えて出版されたもの)を著します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9D%E5%8E%9F%E7%9B%8A%E8%BB%92
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8E%BB
 しかし、これを、そのまま、縄文モードの江戸時代の日本人全体に押し付けるわけにはいきません。
 農民については夜這い文化の温存を黙認するとともに、武士や町人に対しても、弥生的性規範の緩和を実態的に図らざるをえなかったと思われるのです。
 江戸時代の武士、町人の性規範の実態はどうのようなものだったのでしょうか。
 それを窺わせるのが、町人であったとされる井原西鶴(16742〜93年)の一連の好色物であり、その大当たりです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%8E%9F%E8%A5%BF%E9%B6%B4
 西鶴の好色物で最も有名なのは次の3作です。

・好色一代男:「一人の男性(世之介)の好色で自由気ままな人生を活写することにより、庶民男性の一つの理想的な生き方を描きだす」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E8%89%B2%E4%B8%80%E4%BB%A3%E7%94%B7
・好色五人女:「<5話中の1話を除き、>すべて悲劇的な結末を迎える物語となっており、女性たちは、時には命をも賭けて一途な恋を貫いている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E8%89%B2%E4%BA%94%E4%BA%BA%E5%A5%B3
・好色一代女:「堂上家の姫君に生まれた一代女がその道を踏み外して、悦楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に次第次第に転落し、太夫から天神、私娼へと堕ちてゆく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E8%89%B2%E4%B8%80%E4%BB%A3%E5%A5%B3

 このうち、『好色一代男』は、身近な女性や場末の遊里の女性ら(この中にはもちろん比丘尼も登場する!)との交情を経て、一流の遊里の高名な女性らとの交情へ、と交情を重ねながら、交情の相手をランクアップして行くことこそが男にとっての理想的な人生であることを主張したものです(一代男のウィキ前掲)。
 他方、女性に対しては、西鶴は、『好色五人女』で、恋情に狂うと殆んど悲劇に終わるよ、と諭した上で、『好色一代女』で、逆説的に、私娼から天神、そして太夫へと遊女として出世を果たし、この間(できうれば性感が全面開花しない10代の間(太田))に性を堪能し終え(たものとして)、その上で、身請けされて、性への貪欲さを封印し、一夫一婦制の下での安定した余生を送ることを奨めた、というのが私の解釈です。
 この、西鶴お薦めの女性出世双六人生を地で行っているのが、幕末・明治期の元勲等の妻達です。
 
 木戸孝允夫人の松子は京都三本木の芸妓、伊藤博文夫人の梅子は下関稲荷町の芸妓(注4)、陸奥宗光夫人の亮子は新橋柏屋の芸妓出身であったことをご存知の方は少なくないのではないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E6%9D%BE%E5%AD%90
http://maesaka-toshiyuki.com/detail/186
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E4%BA%AE%E5%AD%90

 (注4)「芸妓はあくまでも芸を売って座の取持ちを行うのがその勤めである。しかし、江戸時代以来、芸妓もその他の遊女と同様、前借金を抱えた年季奉公であり、過去の花街は人身売買や売春の温床となっていた。・・・誰でも構わず身を売ることは「不見転(みずてん)」として戒められたが、第二次世界大戦後までこうした不見転はほぼどこの土地でも見られ、置屋も積極的にこれを勧めることが多かった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E5%A6%93#.E5.A8.BC.E5.A6.93.E3.81.A8.E3.81.AE.E5.8C.BA.E5.88.A5

 このように見てくると、改めて、遊郭、というか遊郭文化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E5%BB%93
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E9%81%8A%E5%BB%93
が、かつての日本において、世界的には極めて異例にも、いかに重要、というか不可欠な存在であったかが分かろうというものです。(注5)

 (注5)日支戦争における日本兵による支那人女性強姦の蔓延は、農民出身者の多かった兵士が、日本人以外の女性も顕在的に性に関して貪欲であると誤解していたから生じたと解することもできそうだし、日本軍当局が日本兵による強姦防止のために慰安所を設立したことについては、これまた世界的にユニークな遊郭観が関わっていた、と言えそうだ。

 日本における女性の性的貪欲性の顕在化を防止するメカニズムは、これ以外にもありそうです。
 私の言う中性文化がそれです。

(続く)