太田述正コラム#6296(2013.6.28)
<パナイ号事件(その22)>(2013.10.13公開)

 「南京攻略戦は参謀本部の作戦計画にはもともとなかったため、南京は陥落させたものの、次に実行すべき、明確な政策も作戦も、陸軍中央にはなかった。・・・そのとき、主要な作戦として実施したのは、北支那方面軍が前から要請していた山東作戦の実施を12月18日に下令しただけである。・・・いっぽうでは、大陸の現地軍が・・・統制に違反するかたちで、・・・関東軍は11月25日に蒙疆連合委員会を組織して蒙疆政府の設立の工作をすすめ、北支那方面軍は12月14日に傀儡政権・中華民国臨時政府(行政委員長王克敏<(注44)>、・・・北京を首都とさだめる)を樹立させた。・・・

 (注44)1873〜1945年。「郷試に合格した後の1901年・・・、清朝により日本に派遣される。・・・中華民国(北京)政府で経済専門家として活躍。中華民国臨時政府行政委員長就任翌年、「南京で中華民国維新政府を樹立していた梁鴻志と合流の交渉を開始する。・・・1940年・・・3月に南京国民政府が成立し、王克敏の臨時政府、梁鴻志の維新政府はこれに併合された。南京国民政府の下では、臨時政府の旧統治地域を中心に華北政務委員会が成立し、王克敏が委員長兼内政総署督弁に任命されている。しかし、・・・同年6月に辞任に追い込まれた。以後しばらく、王克敏は国民政府中央政治委員会委員のみの地位にあった。しかし1943年・・・6月、華北政務委員会委員長に再任された。・・・1945年・・・2月、病身のために、各職から辞任した。日本敗北後の同年12月6日、王克敏は漢奸として北平で逮捕される。同月25日、王は獄中で死去した。・・・一般には自殺したとされるが、病死説も有力である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%8B%E6%95%8F

→笠原は、王克敏を「阿片と賭博と派手な生活で身を持ち崩した」(293)人物であったと貶めていますが、典拠が付されていません。
 我々は、汪兆銘や王克敏を始めとする、困難な状況下で日本に協力した支那の人々に対して、敬意と感謝を最低限示してしかるべきでしょう。(太田)

 日本国内では、南京陥落<について、>全国津々浦々、さらに台湾や朝鮮の植民地においても大祝賀行事を繰り広げた。そして、第73帝国議会・衆議院(12月14日召集)では、「南京攻略祝賀に関する件」が議案として上奏され、27日の本会議において、「陸海軍に対する感謝決議」が、全会一致で採択された。・・・
 当時の日本国民だけが、南京事件の事実をまったく知らされず、パナイ号事件についても、アメリカ国民の抗議をふくめた真相を知らされないままにいた<のだ。>・・・。」(283〜285)

→「「新聞掲載事項許否判定要領」(1937年9月9日、陸軍省報道検閲係制定)に基づ<き、>・・・以下のものが「掲載を許可せず」となっていた。「四 左に列記するものは掲載を許可せず (12)我軍に不利なる記事写真 (13)支那兵または支那人逮捕尋問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ)あるもの (14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし 五 映画は本要領に準じ検閲するものとす」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6 前掲
 従って「南京事件の事実」は報道できなかったかもしれませんが、パナイ号事件等についての米国での報道ぶりについては、日本の報道機関は米紙を引用紹介することはできたのではないでしょうか。
 笠原の指摘のとおりだとすれば、各紙等の報道姿勢に問題があった、ということになりそうです。(太田)

 「日本側の要請で・・・トラウトマン和平工作・・・<が再開されたが、>12月21日の近衛内閣の閣議決定で蒋介石政府に提示された条件は、10月1日の四相会議で決定した「支那事変対処要綱」・・・の講和条件よりはるかに過酷なものだった。それは、内蒙古に非武装地帯設定と防共自治政府の設立、華北に日中協力の特殊政治機構設定と経済合作、華中占領地域に非武装地帯設定と大上海区域に日中共同治安維持と経済合作、日本への賠償支払い、華北・内蒙・華中の保障駐兵等々が加えられていた。・・・回答期限も12月末までと猶予をおかなかった。
 この講和条件の提示を広田外相からうけた駐日ドイツ大使ディルクセンは、「私は中国政府による受諾はきわめて難しいと思う」と述べ、広田外相は「軍事情勢の変化と世論の圧力により、これ以外に各方面の意見をまとめることができなかったと」述べている。
 年が明けて1月11日、日露戦争いらいはじめての御前会議が開催された。天皇の隣席のもと、参謀本部総長・次長、軍令部総長・次長、総理、陸、海、外、内、蔵各大臣と枢密院議長が出席して「支那事変処理根本方針」を決定した。それは、・・・<先ほどの>講和条件を受諾するならば、和平交渉をおこない、受諾しないばあいは、国民政府の潰滅をはかるとした。・・・
 中国側の回答は、中国外交部長王寵恵<(注45)>からトラウトマン大使に手交され、1月14日にディルクセン大使から広田外相に手渡された。

 (注45)1881〜1958年。英領香港の「キリスト教牧師の家庭に生まれる。幼い頃から英文を学び、・・・天津北洋大学堂法科<を>・・・卒業し、上海の南洋公学で教官をつとめる。翌年、日本に留学して法律・政治を研究した。・・・その後、欧米に留学して、イェール大学法学博士号とイギリス弁護士資格を取得した。」孫文とともに革命活動を行い、中華民国(北京)政府で要職を歴任した後、ハーグの国際司法裁判所判事を二度にわたって務めつつ、蒋介石政権でも要職を歴任。1937年3月、蒋介石政権外交部長に就任。その後、蒋介石に随従してカイロ会談に出席したり、また、サンフランシスコでの国連憲章制定会議に政権代表として出席している。国共内戦で国民党が敗北すると台湾へ逃れた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AF%B5%E6%81%B5

 相当熟慮の結果、わが方は改変された条件は、その範囲多少広きに過ぎることを発見した。このゆえに中国政府は十分な検討を加え確たる決定に到達するため、新たに提議せられた条件の性質と内容を知らされることを希望する。

 ・・・同日開かれた閣議では、「もはやこのような遅延策にはかまわずに、予定のとおり国民政府を相手とせずとの声明をなし、次のステップに入るべきこと」に意見が一致した。これを聞いた大本営は、即断に反対し、大本営政府連絡会議の開催を要求した。・・・
 <しかし、年が明けてからというもの、>マスコミ、ジャーナリズムは、国民政府はすでに一地方政権に転落しており、蒋介石政府を相手にしなくても・・・華北や蒙疆における新政権の成立<もあり、>・・・中国を屈服させることは可能であ・・・るかのような報道をつづけ<てい>た。・・・
 川越<駐支>大使は、・・・船津工作をぶち壊しにした人物であるが、国民政府に代わって新政権を中国民衆は熱望している<と>述べ、そ<れ>を新聞が・・・報道し、<その結果、>国民の間に「国民政府を相手にせず」の強硬論が優勢とな<った。>・・・

→外務省に、上に広田あれば下に川越あり、というわけです。
 出先の外交官が世論を煽って、その世論に煽られた形で中央の外相が蒋介石政権膺懲論を追求する、という図式ですが、改めて当時の外務省が、既にいかに堕落していたかを思い知らされる感があります。(太田)

 1月15日に開かれた大本営政府連絡会議は、・・・<世論に追随する(太田)>政府側と、・・・<軍事専門家としての倫理と論理を譲らない(太田)>陸海軍統帥部(参謀本部と軍令部)とに分かれ、夜間にまでわたって、白熱した議論が繰りひろげられた。・・・
 参謀本部首脳は・・・停戦・和平を早期に実現しなければ、ずるずると中国との長期戦の泥沼に突入して戦力の消耗を強いられることになり、陸軍の主要戦略である対ソビエト戦争への万全の準備が不可能になるという戦略的な危機意識をもっていた。・・・
 この日の会議の帰趨を決める<統帥部が折れないのなら政府が総辞職するほかないという趣旨の>強硬発言をしたのが、米内海相だった。・・・

→首相(近衛)、外相(広田)、海相(米内)の日支戦争積極論/蒋介石政権膺懲論「3兄弟」への当初の反対論を擲ち、彼らに消極的に同調するに至った杉山陸相とは大違いで、米内は、1月11日の御前会議でも日中交渉の打ち切りを主張した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF
ところの当初から一貫した、日支戦争積極論/蒋介石政権膺懲論の権化とも言うべき人物であり、極東裁判の論理に照らせば、彼こそがA級戦犯の、しかもその筆頭とされてしかるべき人物であったにもかかわらず、同裁判には証人として登場しただけ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF
でした。
 いかに同裁判が恣意的なものであったか、ということです。(太田)

 夕刻、多田参謀次長は参謀本部へ帰って首脳会議を開いて協議し、軍令部とも調整した結果、夜7時半から再開された連絡会議において譲歩を表明した。
 「蒋政権否認を本日の会議で決定するのは時期尚早であり、統帥部としては不同意であるが、政府崩壊が内外におよぼす悪影響を認め、黙過してあえて反対しない。」
 それでも、・・・参謀本部は、・・・帷幄上奏を行い、閑院宮参謀総長が宮中に参内し、近衛首相よりも先に、参謀本部の決定を上奏して、逆転をはかろうとした。・・・
 天皇は、「それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければよかったではないか…自分はこれは必ず決まったことをまたひっくりかえそうと思うんではないかと思ったから、『総理と最初に会う約束をしているから、それはいけない』と言って断った」のである。・・・
 翌16日、近衛内閣は「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」という第二次近衛声明を発表した。」(286〜288、290〜294)

→有事の挙国一致内閣下においても、政治の軍事に対する優位が確固としていたこと(前述)、天皇もまた象徴天皇としての立場に徹していたこと、がよく分かります。
 問題は、何度も記しますが、政治(内閣)が世論に追随するだけの存在に堕していたところにあったのです。
 なお、杉山陸相が、「3兄弟」に同調してしまったことはまことに残念です。
 それを愧じて敗戦時に彼は自裁したのでしょうが、杉山の同調は、結果として日本の敗戦をもたらしただけでなく、陸軍に全責任を押し付けるという、戦後の、(米国は別格として、)外務省及びその(吉田茂以下の)OB達、旧海軍関係者、及びマスコミ・ジャーナリズムからなる新「3兄弟」の跋扈を許し、吉田ドクトリンの生誕と墨守につながってしまったのですからね。
 (なお、陸軍には、1940年時点、ないし1941年12月時点での対英のみ開戦に、最後まで固執できなかった、というもう一つの重大な落ち度がありますが、その話にはここでは立ち入らないでおきましょう。)(太田)

(続く)