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太田述正コラム#6292(2013.6.26)
<パナイ号事件(その20)>(2013.10.11公開)

 「パナイ号撃沈・・・<について、>12月14日・・・『ニューヨーク・タイムズ』は「・・・日本海軍少将、中国軍の乗船が考えられたと釈明」と・・・報道。・・・『ワシントン・ポスト』は「・・・日本軍はパナイ号を識別していた」と・・・報じ<た。>」(247)

→パナイ号事件での誤爆としての謝罪を外務省や海軍現地部隊が東京と上海で行ったのは13日であり、海軍が公式にこのラインでの声明を行ったのは14日でした
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8A%E3%82%A4%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
が、この14日付の記事にその発言を掲載された、匿名の日本海軍少将を、NYタイムスの記者が取材したのは13日であったと思われるところ、その時点ではまだこの政府方針をこの(恐らく現地部隊の)少将は知らないまま、ホンネを語ったと想像されます。(太田)

 「パナイ号事件報道に南京大虐殺報道がくわわったことにより、アメリカ国民の日本軍に対するイメージはさらに悪化し、侵略性・凶暴性・残虐性のイメージが増幅された。・・・
 <米>海軍局査問委員会の報告書は、・・・日本海軍機による故意爆撃説の決め手となった。・・・
 以後、新聞報道は、「誤爆説」を主張する日本当局に対する鋭い批判を展開する。・・・
 日本では、12月27日付の新聞がいっせいにパナイ号事件の「円満解決」を報道して以後は、同事件の報道は、潮が引いたように消えていった。これに反して、アメリカでは両政府間の「外交決着」を吹き飛ばす勢いで、パナイ号事件の写真報道旋風が巻きおこった。パナイ号撃沈の現場を撮影した写真と<映像>フィルムを携えたカメラマン・記者の帰国によって引き起こされたのだった。・・・
 アメリカ国民の・・・日本商品ボイコット運動の広がり<を含む>・・・抗議運動の詳細な情報は、在米日本大使、各領事らから広田外務大臣にあてて逐次報告されていたのである。にもかかわらず、日本政府・外務省はそれらのほとんどを機密扱いにし、日本国民には知らせなかった。・・・
 各地の日本商品ボイコット運動は、AFLやCIO傘下の地方労働組合組織が、指導的な役割をはたしていた。
 全国的な運動としては、アメリカ学生連合・・・が全国の大学のボイコット運動を指導していた。・・・
 <また、>1937年12月18日、50余の市民団体・平和団体がニューヨークに集まって結成した・・・「日本の侵略に反対するボイコット委員会The Committee for a Boycott against Japanese Agression」<は、>・・・数名の大学総長も名を連ね、教授や牧師が指導的役割をはたした。・・・
 これらの・・・市民団体に多くの女性が参加し、指導的な役割をはたした。さらに中国派遣の伝道団の活動や中国におけるアメリカ系ミッションスクール、教会施設の運営を支える、キリスト教団体・組織に参加する女性たちも、ボイコット運動の徹底、普及に大きな役割をはたした。・・・
 パナイ号事件にさいして、日本国内では「優しい大和撫子の純情」「日本の母のお見舞い」ともてはやされて、女性や婦人団体の「お詫び運動」がおこなわれていたとき、アメリカの多くの女性は、日本軍の侵略の犠牲となった中国婦女子に同情の思いを馳せ、パナイ号撃沈事件をきっかけにして、日本軍の行為に抗議する「日本商品ボイコット運動」を展開していたのである。・・・

→米国において、キリスト教原理主義と人種主義とを背景にして、有色人種でキリスト教嫌いの日本人が、同じく有色人種ではあるけれどキリスト教徒も多いところの、かよわき支那人達をいじめている、という偏見に満ちた皮相的な見方を米国民の多くが持っていたという状況下、日支戦争勃発以降、在支キリスト教宣教師達が米本国の親教会各派を通じて女性を中心に信徒達に対して精力的に反日キャンペーンを展開し、このキャンペーンに米主要新聞が意識的無意識的に協力し、更には、蒋介石政権の、同政権がキリスト教擁護政権であるかのように装った米国向けのプロパガンダもあって、反日運動が盛り上がった、というのがかねてよりの私の解釈であることは、ご承知のとおりです。
 なお、在支キリスト教宣教師と言っても、それはプロテスタントの宣教師であって、カトリックの宣教師は含まれておらず、後者は、反赤露意識と的確な日本・支那認識に基づき、日支戦争において、日本側を支持していたことはご承知のとおりです。(太田)

 <この結果、>アメリカの対日輸入総額の統計<によれば、>・・・1937年の12月は前年の12月に比べて約28パーセント減少、38年1月は前年1月に比べて約34パーセントの減少となっ<た>。・・・
 日本軍の中国侵略戦争が拡大の一途をたどるにつれ、より長期化し、日本商品のボイコットだけでなく、アメリカが日本に対して石油や屑鉄の輸出を禁止する対日経済制裁をもとめる運動へと発展していく・・・。・・・」(251〜252、256、269、272〜274、278〜279)

→これほど大規模なボイコットであった以上、報道規制があろうがなかろうが、一般の日本人もこれを知るところとなり、これが、ローズベルトの反日政策とあいまって、親米であった日本世論を硬化させ、世論は急速に米国離れをして行くことになったと考えられます。(太田)

 「<その一方で、>パナイ号撃沈事件によってアメリカ国民にもたらされた日米開戦の危機意識が引き金になって・・・ルイス・ルドロウ<(注39)>下院議員<によって、>議会が外国に対して宣戦布告するには、事前に宣戦の可否を国民投票に委ねなければならない、という憲法修正法案<が>議会に提出<され、>その採択の可否をめぐって国民を巻き込んだ論争が展開されたのである。・・・<そ>の背景には、・・・アメリカ国民が、戦争に巻きこまれるのを避けたいという意識があった。・・・ルドロウ法案は38年10日の下院議会で僅差で否決された。」(270)

 (注39)Louis Leon Ludlow (1873〜1950年)。インディアナ州選出民主党下院議員:1929〜49年。その前後は新聞記者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Ludlow

→これは、米国世論の当時の孤立主義/平和主義がどれほどのものであったか、それゆえにこそ、(前述したように、)ローズベルトによる隔離演説がいかに不評であったか、を雄弁に物語る挿話です。 
 全米で推進された対日ボイコット運動も、その真意は、ローズベルトに日米戦争をやらせないためには平和的手段で日本の対支「侵略」戦争を止めさせる算段を講じるしかない、というせっぱつまった思いにあった、と考えられるのです。
 (ローズベルトは、これを逆手にとって、輸入ボイコットならぬ、戦略物資の対日輸出規制を行うとともに、蒋介石政権に隠密裏に、しかし積極的に(フライングタイガースの参戦を含む)軍事的支援を行うことで、日本を対米英開戦へと追い込んで行くことになるわけです。)
 笠原は、このルドロウ法案が「米国が最初に攻撃された場合を除く」という内容のものであった
http://en.wikipedia.org/wiki/Ludlow_Amendment
ことを(これまた恐らく意図的に)記していません。
 これは、前述したばかりの私の山本五十六評価にもつながることですが、日本が米国を先制攻撃しない限り、米国世論は対日戦争に賛成することはありえなかった、だからこそ、1941年12月には、対英攻撃だけにとどめ、対米攻撃は行うべきではなかった、ということを意味します。(太田)

 「国内では、日本軍が南京を攻略すれば、中国は容易に屈服して、戦争は勝利のうちに終結するという安易な期待感をマスコミが報道し、日本国民は「南京城に日章旗が翻る時」が戦争終結のゴールであるかのごとく戦争報道に熱狂した。いっぽう、上海戦に疲弊した将兵たちは、休養も与えられず、補給体制も不十分なままに南京攻略戦に駆り立てられたため、すでに軍紀が弛緩し退廃していたうえに、さらに、苦戦や難行軍を強いられたため、中国軍民に対するむきだしの敵愾心と破壊欲を増長させ、虐殺、強姦、略奪、放火などあらゆる蛮行を行う軍隊になっていった。・・・

→笠原は、日本兵の「中国軍民に対するむきだしの敵愾心と破壊欲」が、支那側の日本人に対する累次の虐殺事件等によって、第二次上海事変が起きる前から醸成されていたことから意図的に目を逸らしています。(太田)

 <しかも、南京陥落後の>12月17日の段階で南京城内の憲兵はわずか17名であったし、なによりも、軍隊の一部しか南京城内に入れてはならないという鉄則を破って、総勢7万以上の日本軍を城内に入れ、中国市民約25万人の残留する市中に、野放し状態にしてしまったのである。・・・
 松井石根大将は、「一時我が将兵により少数の略奪行為(主として家具等なり)強姦などありしごとくも、多少はやむなき実情也」と戦陣日記(12月20日)に記している。
 松井司令官は、はやる功名心から、12月17日には早すぎた南京入場式を、無理をしてでも挙行することに汲々とし、その日の治安を確保するために、捕虜、投降兵、敗残兵の大量虐殺を執行させ、膨大な男子市民を巻き添えにして虐殺したことにも頓着しなかった。」(280〜282)

→私が、自らの松井評を変更したところ、この変更後の松井評を裏付ける根拠が更に増えた、と言ってよいでしょう。(太田)

(続く)

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