太田述正コラム#6288(2013.6.24)
<パナイ号事件(その18)>(2013.10.9公開)

<補論2:どうして日本軍による捕虜/便衣兵殺害・一般住民殺害・強姦・略奪ばかりが問題視されるのか>

 「抗戦の果てに<南京等を除く>東南の豊かな地域が敗残兵の掠奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ(中略)撤兵時の掠奪強姦など軍規逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」(蒋介石による1937年11月30日の日記)
http://ameblo.jp/michiru619/entry-11459773691.html
 「支邦兵自身は日本軍<の南京>入城前に全然掠奪を為さざりし訳にはあらず,少なくともある程度には行い居れるなり。最後の数日間は疑なく彼等により人及財産に対する暴行犯されたるなり。支邦兵が彼等の軍服を脱ぎ住民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行ひしなるべし。」(米副領事(エスピー)が作成した報告書より)
http://www.tok2.com/home/johnvoid/nakkin_faq_ans8.html

 「12月14日朝、まだ日本兵は中国の一般市民にたいして敵意ある態度をとってはいなかった。だが正午ごろになり、6人から10人ぐらいの日本兵の小グループがあちこちで組織された。かれらは連隊徽章をはずして、家から家を略奪して回った。中国兵は主に食料品に限って略奪したが、日本兵は見境なしであった。かれらは町を組織的かつ徹底的に略奪したのである。
 私が南京を去る12月15日までに、私と他のヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすベて例外なく、またヨーロッパ人の家はその大部分が日本兵に略奪しつ<く>された。屋根になびくヨーロッパの国旗は日本兵に引きずりおろされた。日本兵の一団が家財道具を持ち去る光景も見うけられた。かれらはとくに壁掛け時計を好んでいるようだった。
 まだ南京に残っていた外国の車も押収され・・・た。」(スミス(ロイター通信)記者による講演)
http://www.geocities.jp/yu77799/smythekouen.html 前出

 私の仮説は次のとおり。

一、「捕虜/便衣兵殺害」については、上海〜南京戦の間、日本側から(便衣兵はもとより)捕虜が出なかったので、支那側は殺害しようがなく、「一般住民殺害・強姦・略奪」については、南京城内に関しては、支那兵の方は、その少なからぬ部分が比較的長期駐留しており一般住民と馴染みがあって略奪等に躊躇があったところへ、敗残・脱出までの短時間に、兵士一人一人がバラバラに略奪等を行ったので、日本兵に比べて、略奪等の規模が小さかった。
二、支那兵は欧米人の家に対する略奪等は、味方意識があったこともあり、基本的に行わなかったのに対し、日本兵は(殺害・強姦こそ行わなかったが略奪は)行った。
三、南京城内での略奪等について記録を残したり証言したりした者の大部分は欧米人だったので、一、二、とりわけ二から、日本側に厳しい記録・証言になった。
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 「米内海相は、アメリカ政府に対して海軍航空隊責任者の譴責処分を実施したと通達する前日、支那方面艦隊に対しては心配無用という「激励」電報を打っていたのである。その譴責処分というのも、・・・アメリカ政府と外交上の決着をつけるためのポーズにすぎなかった。・・・
 いっぽう、陸軍は陸軍で、パナイ号事件に不関与であったことを強調し、責任処理を海軍側におしつける姿勢をみせた。・・・
 陸軍発動艇が最後に機銃掃射をあびせてパナイ号に乗艦した事実があるにもかかわらず・・・陸軍側はこれを隠して、陸軍は不関与で責任はないという態度で貫こうとした。・・・
 もともとは現地陸軍司令部からの要請にもとづいて航空部隊を出撃させたのが原因となって、事件を引きおこすことになった海軍は不満だった。その憤懣の発露が、山本海軍次官の<レディーバード事件を起こしたところの>「橋本[欣五郎]なんか弾丸にあたらないか」という・・・言葉<にな>った。」(220〜221)

→同じ日に起きたレディーバード事件とパナイ号事件の対処方針が外務省と陸海軍との間でどのように決まったのか定かではありませんが、ヒューゲッセン事件の時の、(前海軍次官である第三艦隊司令官の意向に反し、その頭越しに、後任の山本海軍次官らと外務省との間の調整で決まったと考えられる)低姿勢の対処方針が先例となったのではないでしょうか。
 日本軍が起こしてもいない前者のケースで事実上の謝罪をした以上は、日本軍が起こしたことが明白な後者のケースでは、それがやむをえないものであっても、公式の謝罪をすべきである、という理屈です。
 仮にそうであったとすれば、陸軍も海軍も、内心は不満たらたらであって当然でしょう。(太田)

 「松井<石根(注38)中支那方面軍司令官は、>・・・<レディーバード事件とパナイ号事件の>両事件が重大な国際問題に発展し、責任者の処分が取り沙汰される段階にいたると、・・・知己であった『ニューヨーク・タイムズ』上海支局長ハレット・アベンドに同紙の一記者を中支那方面軍の司令部まで特別機で来させて、事件の内幕を聞かせた。そして同紙12月20日付に「橋本大佐がパナイ号への射撃を命令 1936年の東京における軍部クーデターの指導者、政治的影響力が処罪の障害となる。松井大将の軍秩序維持の努力は無視される」というスクープを書かせたのである。・・・

 (注38)1878〜48年。陸士・陸大。「中国駐在中は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。・・・1921年・・・ウラジオストク派遣軍参謀・・・1922年・・・関東軍司令部附(ハルビン特務機関長)。・・・1933年・・・に大亜細亜協会の設立発起人となり(後に会長に就任)、同年8月には台湾亜細亜協会を設立した。また日本に留学した蒋介石とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相田中義一との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。・・・1934年・・・4月勲一等旭日大綬章。・・・1935年・・・予備役編入<。>・・・軍紀に厳しいことで知られ、・・・1928年・・・に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている)。満州事変後も1936年に広東・広西で胡漢民、陳済堂、李宗仁、白崇禧ら西南派の指導者らと会談、さらに南京で蒋介石、何応欽、張群らと会談している。・・・日<支>戦争・・・勃発前は予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰、上海派遣軍司令官として上海に派遣された。・・・南京戦後に、一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞いたとき、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。しかし、後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9

 「橋本が帰国するか、私が帰国するかだ。あのような扇動者の行為や方針に責任はとれない」と後日上海にもどった松井はアベンドに語っている。
 アベンドのスクープは四回にわたって『ニューヨーク・タイムズ』に掲載され、大きな反響を呼んだ。その結果、パナイ号事件は、橋本欣五郎のような狂信的な右翼軍人がアメリカやイギリスとの戦争を挑発するために引き起こしたものであり、日本政府はもちろんのこと、軍上層部でさえも、そのような無謀な排外的侵略的武力行動を抑制する力を失っていると、日本軍国主義への強い警戒心をアメリカ政府・国民にあたえることになった。・・・
 結局、陸軍はレディーバード号事件で橋本欣五郎を譴責処分にしなかった。後日談になるが、松井と橋本の対立で先に帰国させられたのは松井の方だった。松井石根大将は中支那派遣軍(司令官畑俊六大将)の編成にともなって中支那方面軍司令官を解任され、1938年2月に帰国した。橋本欣五郎大佐が召集解除になって帰国したのは一年後の39年3月だった。」(223〜224)

→私は、松井にはこれまで比較的好意的な印象を抱いていたのですが、この挿話には開いた口が塞がりません。
 自分の命令に従って行動しただけの橋本を貶めた上で責任をなすりつけるとは言語道断です。
 橋本は、レディーバード事件に関し、独断で先方に謝罪してしまうという過ちを犯していますが、河本大作への姿勢からも窺えるように、松井はこの種の独断専行(下剋上)が極度に嫌いな人物だったのかもしれません。
 しかし、結果的に日本政府、陸軍中央が橋本を追認する形で英米に謝罪した以上、松井は橋本を咎めることができなくなってしまったわけです。
 その怒りを、松井は、屈折した形で外国人記者に吐き出した、ということなのではないでしょうか。
 そんな松井の下、部下が南京で捕虜や便衣兵の殺害を独断専行で行う訳がありませんし、部下が兵士達による略奪等に目をつぶるわけがありません。
 前者は(赤露通かつ支那通として、支那人、とりわけ軍閥兵や蒋介石軍の兵士達、を軽蔑し切るに至っていた)松井が直接命じ、後者は南京攻略戦以前から事実の報告を受けていて何の措置もとらずに黙殺した可能性が大です。
 上掲ウィキペディアの執筆者が松井について「軍紀に厳しい」と記したのは、引用すべき資料の選択を誤ったのか、自ら言葉の選択を誤ったのか、いずれにせよ不適切でした。
 ご承知のように、私は、当時の陸軍は海軍よりマシで、その海軍でも外務省よりはマシであったと申し上げてきているわけですが、どんな組織にも腐った林檎はつきものであり、陸軍の場合、その数少ない腐った林檎の一つが松井であった、と言えそうです。
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 ところで、不思議なことがあります。
 それは、NYタイムス南京支局長(?)であった、F・ティルマン・ダーディンが、南京脱出後、南京における日本兵による支那人の虐殺等について、12月17日に上海停泊中の米船オアフ号から送った記事が翌18日付の紙面を飾り、また、その12月18日に上海(のNYタイムス支局?)から送った記事が翌19日付の紙面を飾っており、
http://www.geocities.jp/yu77799/durdin.html 前掲
上海支局長ハレット・アベンドは、恐らく12月19日に送ることを許可したはずの、20日から4回にわたって紙面を飾った、松井のインタビュー記事の中に本件を織り込まなかったのはどうしてか、です。
 日本の現地軍の最高責任者に、本件について問い質す絶好のチャンスであったにもかかわらず・・。
 (笠原が一切言及していないので、本件は織り込まれなかった、と考えざるをえません。)
 まさか、アベントがライバル(?)のダーティンに花を持たせたくなかったなどということではなかったでしょうから、NYタイムスの読者にとっては、日本軍による支那人の虐殺等よりも、日本軍による米英軍艦等への攻撃の方がより関心があったので、それに応えようとした、ということなのでしょうね。
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(太田)

(続く)