太田述正コラム#6280(2013.6.20)
<パナイ号事件(その14)>(2013.10.5公開)

 「<ところが、>南京にはアメリカ伝道団各派の創立・運営する学校や病院、教会施設が集中していたから、第三艦隊司令長官の南京避難勧告は、日本軍がそれらのミッション施設を爆撃して、アメリカ人を南京から追い出そうとするものだと受け取られ、大きな反発を引き起こした。・・・

→以前にも指摘したことですが、支那に比べてキリスト教の布教が進まなかった日本に対する、米国の宣教師等の反感が、このような反応の背景にあったと考えられます。(太田)

 9月25日に、・・・コーディル・ハル国務長官は日本に警告をおこなった。・・・
 日本海軍機による<南京等の>無防備都市<(注28)>の爆撃、および日本の中国侵略を非難する世界の世論がたかまるなかで、イギリスは国際連盟に日本の行動を非難する決議案を上程し・・・28日の連盟総会において全会一致で採択された。・・・

 (注28)ハーグ陸戦条約に規定されている。
 その付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」から、関連諸規定も併せ、紹介しておく。
 「第25条:防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない。
第26条:攻撃軍隊の指揮官は、強襲の場合を除いて、砲撃を始めるに先立ちその旨官憲に通告するため、施せるだけの一切の手段を尽くさなければならないものとする。 
第27条:攻囲及び砲撃を行うにあたっては、宗教、技芸、学術、慈善の用途に使用されている建物、歴史上の記念建造物、病院、傷病者の収容所は、同時に軍事目的に使用されていない限り、これに対しなるべく損害を与えない為の必要な一切の手段を取らなければならないものとする。攻囲された側は識別し易い徽章をもって建物または収容所を表示する義務を負う。前述の徽章は予めこれを攻囲者に通告すること。
第28条:都市、その他の地域は突撃によって奪取された場合といえども、略奪を禁止する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84

→南京等が無防備都市の定義にあてはまらないことは明白ですが、いずれにせよ、一方的に、(戦争を仕掛けた側の)蒋介石政権側に立って英国が動いたことは、日本の世論の反英感情を募らせたに違いありません。(太田)

 世界の非難の高まりをうけて、9月27日、堀内謙介<(注29)>外務次官は、駐日イギリス大使クレーギーに対して日本軍機は25日以降にはもう南京爆撃をおこなわないと明言し・・・た。

 (注29)1886〜1979年。一高・東大法。支那、英国、米国等で勤務し、調査部長、アメリカ局長を経て1936年4月、外務次官に就任。1938年10月から1940年12月まで駐米大使。戦後、駐中華民国大使等を歴任し、1959年に退官した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E8%AC%99%E4%BB%8B

 <しかし、海軍の>第二連合航空隊は10月に入るとさらに激しい南京空襲を再開した。」(137〜139、141、145)

→笠原は、外務省と海軍との間でこのような齟齬が生じた理由を解明しようとしていません。
 恐らくは、外務省の国内(官庁間)情報収集能力や情報吟味体制の不十分さに由来する大失態なのではないか、と想像されます。(太田)

 「<かかる背景の下、>ローズベルトは、10月5日、・・・「隔離演説」をおこなった。・・・
 翌6日には、アメリカ国務長官ハルも、・・・「日本の行動は国際関係を規律する原則に違反し、9カ国条約およびケロッグ不戦条約に違反する」という声明を発表した。・・・
 <このような>日本批判に対して、6日、外務省の河相達夫<(注30)>情報部長は、次のように反駁の声明を発表した。

 (注30)1889〜1966年。東大法卒、一年間の北海道炭礦汽船勤務を経て外務省入省。カナダ、支那、満州国、米国、そして再びの支那勤務を経て1937年情報部長。1939年オーストリア公使、1943年退官。終戦後の1945年9月13日に情報局総裁(外務次官=終戦連絡中央事務局次長、と兼任)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%9B%B8%E9%81%94%E5%A4%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%B1%80

 世界は現に"持てる国"と"持たざる国"との争いがあり、資源、原料分配の不公平がやかましく論ぜられている。もしこの不公平が是正されず、"持てる国"が"持たざる国"に対して既得権利の譲歩を拒んだならば、これを解決する道は戦争による外ないではないか。

 ・・・<これは>あまりにも直裁すぎて「陸海から取消要求が来たというから笑わせる」と石射猪太郎はこの日の日記に書いている。・・・

→この声明は、欧米の帝国主義諸国(=持てる国)によって植民地を含めたブロック経済化が進展した結果、日本(=持てない国)が資源や市場かから占め出されていることを批判しようとしたのでしょうが、表現が露骨過ぎて反発を招くだけであったことでしょう。
 陸海軍が外務省に抗議したのは当然です。
 外務省は、言葉を武器に戦う役所であるはずなのに、言葉の使い方を知らない人物を、よりにもよって情報部長に就けていたとは信じがたい思いです。(太田) 

 広田弘毅外相は、9日、・・・日本政府の見解を改めて発表した。

 日本の行為は自衛措置であって、逆に中国こそ、赤色勢力に操られ、執拗悪性の排日を実行し、武力行使によって自国内にある日本の権益を排除しようとするもので、不戦条約に背くものである。

→広田は、その年の2月2日まで首相を務めていた人物であり、この10月9日の彼の見解表明は、9月11日の近衛首相の演説(コラム#6272)とセットで受け止められるべき、日本政府の(日本が追求しているのは対赤露抑止なる)公式見解なのであって、何度も繰り返しますが、それは当時の国民的コンセンサスを踏まえたものだったのです。
 外務省は、この見解をあらゆる機会をとらえて、具体的事実を摘示しつつ、欧米列強、就中米英の当局者や世論に向けて訴えて行かなければならなかったのですが、それをやった形跡がないどころか、堀内次官や河相部長のような失策ばかりをやらかしていたわけです。(太田)

 ・・・1937年当時、日本の国際貿易において、アメリカは輸入の33.6%、輸出の20.1%を占めて、日本の経済的死命を制しうる立場にあり、戦争遂行に不可欠な軍需品や戦争資材、とりわけ石油の対日供給において決定的な役割を果たしていた。このため、日本の政府・軍部首脳がもっとも恐れたことは、ブリュッセル・・・<の>九カ国条約・・・会議においてアメリカの主導による対日経済封鎖が決定されることであった。・・・
 <そこで、>10月1日、・・・四相会議は、南京政府との和平交渉のための条件をさだめた「支那事変対処要綱」を決定し・・・た。・・・
 同要綱の講和条件は、中国の「満州国」承認、華北の一定地域と上海周辺に非武装地帯を設定すること、華北は中国中央政府の行政のもとにおくことを認め、日中経済合作の協定をむすぶことを主とする比較的「寛大なもの」であった。・・・
 <その上で、>広田外相から駐日ドイツ大使ディルクセン<(注31)>に対して日中和平交渉をドイツが斡旋してくれるように申し入れた。・・・

 (注31)Herbert von Dirksen(1882〜1955年)。ベルリン大卒。ドイツの外交官。駐ソ連大使をへて1933年駐日大使(13年まで在任)、後、駐英大使。
http://kotobank.jp/word/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3

 ドイツ外務省の意向をうけた中華ドイツ大使トラウトマン<(注32)>は、積極的に日中戦争の和平工作に乗りだした。トラウトマン和平工作(あるいは単にトラウトマン工作)といわれる。

 (注32)Oskar P. Trautmann(1877〜1950年)。「1907年から1914年までサンクトペテルブルク副領事を務める。1921年に日本の神戸総領事となり、1922年に東京の大使館参事官に転じる。1926年から1931年まで外務省東洋局参事官を務めた。1931年、ドイツ公使として北京市に赴任、・・・1935年に南京公使に転じた。・・・1938年に南京から召還され本国に帰国。1942年に退官した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3
 なお、ドイツ語のウィキペディアにも、法学を学んだとあるだけで、出身大学は書かれていない。
http://de.wikipedia.org/wiki/Oskar_Trautmann
 高卒程度のノンキャリの可能性が大。

 11月初、トラウトマンは蒋介石に対してさきの「支那事変対処要綱」にもとづく日本政府の和平条件をつたえた。しかしこのとき蒋介石は、九カ国条約会議・・・で列国による対日制裁が決定することを期待して、日本側の提案は同会議の結果が判明するまでは、とくに考慮に値しないと答えて交渉は進展しなかった。・・・
 <しかし、その>ブリュッセル会議<は>日本の中国侵略に対して警告宣言を発すると言う平和的手段に訴えることで終わっ<てしまっ>た・・・。」(147〜152)

→蒋介石が、トラウトマン工作をただちに受け入れなかったのは、致命的なミスであったことが判明します。(太田)

(続く)