太田述正コラム#6274(2013.6.17)
<パナイ号事件(その11)>(2013.10.2公開)

「上海戦には不拡大方針をとった参謀本部の作戦から、上海派遣軍には精鋭の部隊を送らずに、現役を終了した予備役兵と5年4か月の同役を終了した後備役の兵士の兵隊が多く派遣された。したがって兵士としては高齢であり、多くが結婚して所帯をもっていた。そうした充たされた家庭生活からの突然の出征であったから、大多数の兵士は「赤紙」が届けられると、「しまった」「困った」というのが率直な心境であったが、それが熱烈な歓迎をうけて、経験しなかった興奮と緊張のもとにやがて歓喜となり、出征兵士として観劇に満ちて戦地に向かうという覚悟と決意を抱くように変化していった。」(106)

→予備役と後備役とは言っても、彼らは、基本的に戦争体験はなかったはずであり、まともな再訓練を受けることなく平和な生活から突然戦場に送り込まれたという点では、むしろ、現役兵でなかっただけに、彼らはより大きな環境の変化に直面させられた、と言えそうです。
 このことも、彼らの南京攻城戦でのご乱行と、それを嚆矢として支那で続出することとなる、日本兵によるご乱行の伏線として頭に入れておくべきでしょうね。(太田)

 「陸軍が・・・満州事変・・・をおこして予算を獲得したという実績を目の当たりにした海軍エリート層の間に、対米強硬論を唱え、対米軍備拡張を叫ぶ加藤寛治<(注21)>・末次信正<(注22)>派の勢力が急速に伸長していった。・・・

 (注21)1870〜1939年。海兵。軍令部長:1929年1月〜1930年6月。海軍大将。「ワシントン海軍軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の主席全権加藤友三郎と激しく対立する。しかしワシントン軍縮条約後の人員整理(中将は9割)で、“ワンマン大臣”加藤友三郎海軍大臣が加藤寛治を予備役に入れず、逆に軍令部次長に据えたことなどから、加藤友三郎は加藤寛治を後継者の一人と考えていた可能性さえあり、両加藤の間に決定的な対立は存在しなかったという見方もある。・・・晩年、元帥府に列しようとする話が持ち上がったが、条約派の反対で沙汰やみになった、・・・1935年・・・、後備役。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AF%9B%E6%B2%BB
 (注22)1880〜1944年。海兵・海大。第一次近衛内閣の内務大臣。海軍大将。「軍縮条約反対派の中心は軍令部長の加藤寛治であるとみられていたが、・・・実際は末次が艦隊派の中心であるという見方もある。・・・艦隊派は対米強硬派ではあるが、必ずしも対米戦争を望んでいた訳ではない。しかし末次は満蒙の確保が日本海軍の最大の任務であるとし、そのため米国を排除することが必要であるとして、公然と英米打倒論を唱えており、対米強硬派の雄なる存在であった。・・・なお末次は日独伊三国軍事同盟に賛成であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E4%BF%A1%E6%AD%A3

 1920年代末までは「軍政派」が「海軍エスタブリッシュメント」を形成し、部内の「花形」的存在になっており、「良識派」の指導者たちが海軍の伝統をになってきた。ロンドン軍縮条約をめぐって、当時の加藤寛治軍令部長、末次信正同次長の「艦隊派」=「統帥派」のコンビは、条約反対の強硬論をまくしたてたが、そのときは同条約の受諾にふみきった海軍省首脳部すなわち「軍政派」に敗れた。しかし、加藤・末次派は、・・・自派勢力の巻きかえしをはかった。その背後には、ロンドン条約に強硬に反対する東郷平八郎元帥がいた。
 ・・・最初の成果が、1932年2月、伏見宮博恭王の軍令部長就任であった。・・・
 第二の成果は、1933年9月に実施された軍令部条例の改定であった。それまで海軍では、軍令部長の権限が陸軍の参謀総長よりもはるかに限られており、軍政関係(たとえば予算問題や制度改廃)には直接タッチすることはできなかった。・・・それが、この改定によって海軍大臣の権威が極度に縮小され、海軍省に対する軍令部の優位が確立することになった。従来は海相に属していた平時における兵力の指揮権が、軍令部総長(陸軍の参謀総長にならって、こう改称された)に移され、兵力量に関する権限が明確に軍令部側に移ったのだ。さらにこの改定以後、海相の選任のさい、伏見野宮の同意をえるという慣行さえできてしまった。・・・
 第三は、1933年から34年にかけて、加藤が大角岑生海相をおどらせて実行させた「大角人事」だった。この結果、1920年代に軍縮に尽力した「条約派」の智将たちは、現役から「粛清」され、予備役にまわされた。・・・
 1936年3月、海軍は「海軍政策及び制度研究調査委員会」を設置、海軍次官の長谷川清中将を中心に日本の南方進出をはかる「国策要綱」を作成した。・・・このときの海軍次官長谷川中将こそ、第三艦隊司令長官(36年12月就任)として盧溝橋事件以後の海軍の日中全面戦争作戦を指揮した人物である。
 それまでの「国防国策大綱」は石原莞爾参謀本部第二課(戦争指導課)長の策案によるソ連を主要敵国とする「南守北進」の方針にもとづいていた。そのため、陸軍優先の国防政策がとられていたが、それを逆転させてアメリカを主要敵国とする「北守南進」の方針に変更させ、海軍優先の国防政策に転換させようとしたのである。・・・
 同年6月、海軍のイニシャチブによって「帝国国防方針」の第三次改訂がおこなわれ、対ソ戦備を要求する陸軍と対米軍備の優先を固執する海軍との競合的な主張を併記した「南北並進論」が決定された。・・・このとき、想定敵国の一つとしてかつての同盟国であったイギリスがはじめて加えられた。
 ついで8月の五相会議(広田弘毅首相・有田八郎外相・馬場0貘∩蝓寺内寿一陸相、永野修身海相)は帝国国防方針の改定をうけて、南北並進の戦略とそのための軍備充実を定めた「国策の基準」を決定した。・・・」(112〜116)

→笠原は、国際情勢も、それを反映していた世論も捨象して、いわば真空の中で海軍や陸軍について論じており、彼の噴飯ものの艦隊派陰謀論はその帰結である、ということを強調しておきたいと思います。
 ワシントン軍縮会議における「軍政派」と「艦隊派」の争いは、注21からも分かるように、争いの範疇に入りませんし、ロンドン軍縮会議における両派の対立も、対米英海軍という目的を共有した上での、条約と無条約のいずれがよりその目的達成に得策か、という技術的争いに過ぎません。
 「艦隊派」ですら、注22からも分かるように、対赤露抑止という国民的コンセンサスを「軍政派」及び、当然のことながら陸軍とも共有していた、という背景の下での話なのですからね。
 そもそも、日本を取り巻く国際情勢は、1920年代中頃から、ソ連の国力の増大、容共の中国国民党による支那統一の加速化及び反日活動の活発化、米国の対日敵視、英国の日本離れ(シンガポール軍港の整備等)、更には米国発の世界大恐慌とその結果としてのブロック化された世界経済からの日本の締め出し、といった具合に急速に緊迫の度合いを増してきており、そうした中で、陸軍と海軍の(対米英も勘案した)軍備拡張、及び、政治経済社会の有事即応化ないし総動員化を、日本の世論が要請するに至っていたわけです。
 陸海軍経費の増額はもとより、軍令部の権限強化(海軍の有事即応化)についても、かかる文脈の下では、必要不可欠なことであった、と受け止めるべきなのです。
むしろ、首相及び内閣の権限強化や(空軍の設置ともあいまった)陸海空を統合した国防省の設置や国家諜報機関の設立がなされなかった等、政治経済社会の有事即応化が不十分であったことが悔やまれます。(太田)

(続く)