太田述正コラム#6272(2013.6.16)
<パナイ号事件(その10)>(2013.10.1公開)

 「海軍の作戦計画は、現代戦・総力戦思想にもとづく戦略爆撃の実施であった。この新軍事理論を先駆的に提起したのがイタリアのジュリオ・ドゥーエ陸軍少将<(コラム#520〜523、526、2985)>の著書『制空権論』(1921年出版)である。・・・
 これまで見てきた海軍の都市空襲と海上封鎖、鉄道、橋の爆撃は、まさに・・・戦略爆撃であり、・・・それを中国に宣戦布告もせずに、いっぽう的に強行した日本海軍に対して、国際的非難が集中したのは当然であった。

→第二次上海事変は、蒋介石政権が、「宣戦布告もせずに、」組織的計画的に、上海等に条約上権限に基づいて駐留していた日本軍に対して仕掛けてきたものであり、その反撃のために、帝国海軍が、敵の指揮・兵站中枢である南京を始めとする、上海周辺の諸都市の指揮・兵站拠点や、これら諸都市を結ぶ海上・陸上兵站線を攻撃したことは当然であり、国際法違反でも何でもありません。(太田)

 しかし、当時の日本国民は、この国際法違反の行為に喝采をあげ、その戦果に興奮したのである。・・・

→話が逆であり、「当時の日本国民」の世論に則って近衛政権、陸軍、及び海軍が行動した、というだけのことです。(太田)

 <そ>の発動を正当化したのが、第一次近衛声明の南京政府「断固膺懲」の表明であった。・・・陸軍中央と政府、そして天皇もまだ不拡大方針で戦局の早期解決を模索していたときに、海軍は・・・局地戦争をいっきょに全面戦争に拡大してしまったのである。・・・
 「膺懲」というスローガン<は、こうして、>・・・中国に抗日勢力が存続するかぎり、「膺懲」を続けるという、日中戦争を長期の泥沼に引きずりこむ「自縄自縛」の言葉となった。その意味で、「支那膺懲」を戦争目的として声高に叫んだ近衛首相の責任も大きいと言わねばならない。」(92〜93)

→結果論で歴史を裁断するのは基本的に望ましくはありませんが、日本が結局戦争に負けたことから結果論で当時の海軍や近衛首相を非難するのであれば、蒋介石政権が結局(日本が負けてからそう遠くない時点で赤露勢力によって)政権を奪われたことから結果論で、(赤露抑止政策を推進していた)日本との戦争を終わらせようとしなかった蒋介石を非難する方がまだ筋が良い、というべきでしょう。
 というのも、日本は、戦争に形の上では負けたけれど、戦争目的は達成したのに対し、蒋介石政権は全てを失ったのですからね。
 日本にとって、この戦争の主目的が、一、対赤露抑止と二、通商の自由の確保であり、中途で加わった付随的目的が、三、欧米の植民地の解放であったところ、一は米国に全面的に肩代わりさせることで、二は三の成功と米国が自国市場を基本的に解放したことにより、三は日本が戦争の途中で仏領インドシナに進駐し、マラヤ、インドネシア、ビルマを占領し、インドにまで攻め込むことが決定的契機となって、それぞれ達成されたことを思い起こしてください。(太田)

 「<宣戦布告せずに>帝国議会における天皇の勅語を「宣戦布告」とみなすという日本人だけに通用する手続きをふんだ政府は、本格的な戦時体制への移行に着手し、9月9日に「・・・国民精神総動員を実施する旨の内閣告諭を全国各官庁に訓令した。ついで11日、国民精神総動員運動が発足し、日比谷公会堂で政府主催の国民精神総動員大演説会が開かれ、・・・近衛首相は「時局に処する国民の覚悟」と題する大演説をおこなった。

 抗日の激するところ、いまや国を挙げて赤化勢力の奴隷たらんとする現状に立ちいたった。ことここにいたっては、ただに日本の安全の見地からのみに止まらず、広くは正義人道のため、特に東洋百年の大計のためにこれに一大鉄槌を加えて直ちに抗日勢力のよってもって立つ根源を破壊し、徹底的実物教訓によりてその戦意を喪失せしめ、しかる後において支那の健全分子に活路をあたえ、これと手を握って俯仰天地に愧じざる東洋平和の恒久的組織を確立するの必要に迫られてきた。(中略)
 この日本国民の歴史的大事業を、我らの時代において解決するということは、むしろ今日生をうけたる我ら同時代国民の光栄であり、我々は喜んでこの任務を遂行すべきであると思う。

 近衛首相の演説は、抗日政策を推進している蒋介石政府を打倒して、傀儡親日派政権を樹立することまで謳っており、その後に近衛内閣が進めようとした政策を飛びこえた「過激」なものであった。」(100)

→この時、近衛首相が口にしたところの、日支戦争は、支那が赤露勢力の手に落ちることを防止するという、日本の安全保障と支那人民の保護に資するための(=人間主義的な)戦いである、とは、同首相の「過激」さの表れどころか、当時の日本世論の常識の表明に過ぎなかったというのに、笠原は何という世迷言を言っているのでしょうか。
 仮に米英が日本を対米英戦争に追い込むなどという愚行を行わなかったとすれば、「傀儡」汪兆銘政権が蒋介石政権を圧倒し支那の正統政権になっていた可能性が大である、と私は考えています。
 黄河決壊事件(コラム#6269)を起こすなどという凶行を演じた蒋介石政権が、その舞台となった河南省でどういう運命を辿ったのか(注20)を思い起こすだけで、それ以上の説明は不要でしょう。(太田)

 (注20)「劉震雲によれば1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した。(・・・死者300万人、土地を捨てた者300万人、救援を待つ飢えた人々は1,500万人を数え、河南の西部、南部、東部の順に伝染病の被害があった・・・)この状態が続けば河南省は全滅していたが、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り多くの軍糧を放出して多くの人々の命を救った。(・・・飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、飢えた人々に食糧を調達していた・・・)河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れない程だった。
 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行しはじめた。これは農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取りあげはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。推定では、河南の戦闘において数週間の内に、約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果30万の中国軍は全滅した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

(続く)