太田述正コラム#6268(2013.6.14)
<パナイ号事件(その8)>(2013.9.29公開)

<補論>

 笠原が、史実のつまみ食いを行っていることから、このあたりで、簡単に、全体像的な史実を紹介しておきたいと思います。

 --第二次上海事変のあらまし--

 (以下、引用したところの、本事変に係る日本語ウィキペディアは、基本的に当時の日本の主要紙の記事と防衛庁(省)公刊の『戦史叢書』に拠っており、相当程度信頼できると判断した。)

 「背景

 ・・・1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、ドイツ軍事顧問団の指導により、大陸沿岸と揚子江には砲台が築かれ、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して盧溝橋事件以前から築かれていた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。・・・
 中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備し、火力では日本軍をはるかに上回り、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けていた。1934年・・・、上海・南京間の陣地構築が始まり、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。福山と呉県の間(呉福線)、江陰と無錫の間(錫澄線)、呉淞と竜華の間(淞滬線)、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。
 ゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦術だけでなく、戦争指導にまでかかわり、対日敵視政策、対日強硬策を蒋介石に進言した。ファルケンハウゼンは中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、・・・1935年・・・10月には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案し、・・・1936年・・・4月には、いまこそ対日開戦のチャンスだと進言した。・・・
 7月10日蒋介石は・・・徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している。しかし、8月12日未明には中国正規軍が上海まで前進し、国際共同租界の日本人区域を包囲した。翌8月13日には商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始、小規模な戦闘が勃発した。さらに中国軍は空襲を加え、8月14日には上海地区の警備司令官である張治中が率いる中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃。日本政府は国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから、それまで日本が取っていた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。このように中国政府軍による上海攻撃の結果、日中両軍は全面戦争に突入した。・・・国共合作<が>事実上成立してい<たことから、>・・・蒋はソ連と不可侵条約を結び(8月21日)、共産党と妥協して統一戦線を作った(9月22日世に言う第二次国共合作)。
 <なお、>国民政府軍の精鋭部隊は上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘で殆ど壊滅状態になり、政府軍はその後の共産党との内戦にも敗れることになった。・・・
 <ちなみに、>当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれていた。自国民を守るため、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770人がいた。・・・

  大山事件

 ・・・作家ユン・チアンとイギリス人歴史学者ジョン・ハリデイの夫婦は、<『マオ 誰も知らなかった毛沢東(Mao: The Unknown Story)』(コラム#1879)の中で、>大山事件は張治中による工作とみている。
8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。
 なお・・・、張治中はソ連のスパイでもあったという。<(コラム#1879とそのQ&A参照)>・・・

  戦闘

 ・・8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。対する日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまりであった。・・・
 8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始している。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定したほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった。・・・
 午後4時54分には、八字橋方面の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。午後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された。・・・

→攻撃を仕掛けたのは蒋介石政権軍側からだった、ということです。(太田)

 長谷川清・・・第三艦隊司令長官・・・は、・・・5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は華北の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。
 13日午後9時頃から国民党軍が帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃を開始し戦闘に突入した。当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は多めに見ても5千人であったのに対し、国民党軍はすでに無錫、蘇州などで・・・20万人以上が待機していた。同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している。

→海軍が、かねてから危機意識を持っていたこと、そして、この時点で全面先制攻撃ないし全面反撃を企図したのは当然です。
 長谷川が、パナイ号事件の責任者であったにもかかわらず、「戦後・・・A級戦犯容疑で約2ヶ月間、巣鴨刑務所に収監された<けれど、>・・・無罪と判断して釈放した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B8%85
ことが想起されます。
 笠原がいかに筆をまげているかをじっくり反芻していただきたいものです。(太田)

 8月14日には日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲・・・が開始された。この爆撃によって周辺のフランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した、31分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。民間人3000人以上の死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると誤った内容の報道をしたこともあった一方、前日の渡洋爆撃命令を受けて、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃機を飛ばして、杭州や広徳を爆撃している。九州から南京への渡洋爆撃も予定されていたが、九州の天候が悪かったため延期された。

→日本側が爆撃を開始したのは蒋介石政府側が爆撃を開始したのと同じ日であり、何度も同趣旨のことを申し上げますが、海軍が一方的に戦線を一挙に拡大したという印象を与える笠原の記述が極めて不適切であることが分かろうというものです。
 そもそも、陸上部隊に関しては、とりわけ戦闘開始時点の兵員数において、日本側が圧倒的に劣勢であったわけであり、その劣勢を補うためにも航空機の積極的活用による攻撃は不可欠でした。
 なお、日本側の爆撃が広範囲にわたったのは、相手側が全面攻撃を仕掛けてきた以上、相手側の航空基地や陸上部隊の兵站拠点、更には戦略的拠点、を攻撃するのは、戦術上の鉄則だからです。
 相手側の航空機が日本側と同様の広範囲な攻撃を行わなかったのは、単にその能力がなかったからに過ぎません。(太田)

 同じく14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。
 日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。第3師団と第11師団に動員命令が下り、上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃をこの日より開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。
 第87師、第88師の2個師であった中国軍は、15日になると、第15師、第118師が加わり、17日には第36師も参戦し、7万あまりとなった。日本側は、横須賀と呉の特別陸戦隊1400名が18日朝に、佐世保の特別陸戦隊2個大隊1000名が19日夜に上海に到着し、合わせて約6300名となった。
 8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。
 しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。
 8月21日、・・・中ソ不可侵条約が締結された。ソ連は直ちに飛行機四、五百機と操縦士および教官を送り込んだ。
 8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蒋介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ。
 8月23日、上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で上陸に成功した。支援艦隊の中には、第六駆逐隊司令官として伏見宮博義王中佐も加わっていた[25]。9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐する。同時期に中国側は第二次国共合作を成立させ、日本側は華北で攻勢に出るなど、全面戦争の様相を呈した。しかし、中国軍の優勢な火力とドイツ軍事顧問団によるトーチカ構築と作戦によって、上海派遣軍は大苦戦し、橋頭保を築くのが精いっぱいで、上海市街地まで20キロかなたの揚子江岸にしばられた。中国軍の陣地は堅固で、中国兵は頑強だった。依然として、特別陸戦隊は数倍の敵と対峙しており、居留民の安全が確保されたわけはなかった。このため、8月30日には海軍から、31日には松井軍司令官から、陸軍部隊の増派が要請された。

→ヒューゲッセン事件が起こったのは、このような激戦の続いていた真最中の8月26日であったことを思い出してください。(太田)

 石原莞爾参謀本部第1部長一人が不拡大を名目に派兵をしぶっていたが、9月9日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、第3師団は戦死者1080名、戦傷者3589名であった。9月27日、石原部長の辞職が決定した。

→この期に及んでの石原の抵抗は理解に苦しみます。戦闘、というより戦争の火ぶたが切って落とされた以上は、勝たなければならず、兵力の出し惜しみは百害あって一利なしだからです。
 結局のところ、石原は夢想家(「哲学」者)であって実務家(軍事官僚)不適格者であった、ということでしょうね。(太田)

 10月上旬、大場鎮の5キロ手前の呉淞クリークまで進んだが、中国軍の激しい抵抗に、呉淞クリークを越えて1キロ進むのに10日もかかる有様であった。10月18日には5個師団と1支隊の戦死傷者は22082名に達した。
 10月9日、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した。
 10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。10月26日、上海派遣軍は最大の目標であった上海近郊の要衝大場(Dachang)鎮を攻略し、・・・落として、上海はほぼ日本軍の制圧下になったが、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており、第3師団と第9師団は強力なトーチカのため、進めなかった。
 11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に日本の第10軍が上陸した。上陸しても、中国軍の攻撃はほとんどなかった。・・・蘇州河で戦っている中国軍は、第10軍によって退路が絶たれるかも知れず、大きく動揺した。11月9日、中国軍は一斉に退却し始めた。後方にあった呉福線や錫澄線の陣地は全くの無駄になった。
 日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出し<た。>・・・。
 日中戦争において中国側国民革命軍は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が行われた。中国軍が退却する前には掠奪を行うことが常となっていたため掠奪の発生により実際は11月9日となった中国軍の退却が予測された。中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていた・・・。上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。
 10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編成された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。また、平行追撃と同時に敗軍の追討のために南京を攻略する構えを見せた。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京攻略の独走を追認した。
 ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京からの撤退を主張したが、蒋介石が南京での防衛戦にこだわったため、多くの兵力や市民が南京周辺で日本軍に包囲された。・・・

  漢奸狩り

 中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した。上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。・・・

  督戦隊・・・

 中国軍(国民革命軍)では督戦隊が戦場から退却する中国兵に銃撃を加えた。・・・日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

→蒋介石政権軍による、退却する際の掠奪や破壊にせよ、漢奸狩りにせよ、督戦隊にせよ、いずれも野蛮を絵にかいたような話であり、通州事件や大山事件等、日本人が、蒋介石政権軍やその息のかかった部隊によって、一般住民を含め、多数虐殺されていたこともあり、日本軍兵士達の間で、蒋介石政権、ひいては支那人一般に対する嫌悪感や反感が募って行ったことは想像に難くありません。
 しかも、日本軍側には多大な死傷者が出ていました。
 これらが、南京事件を始めとする、爾後の日支戦争における、日本軍兵士・・徴兵されたところの、高度経済成長下の自由民主主義的社会の一般市民がその大部分を占めており、しかも、その大部分が戦場に急に引っ張り出された平和志向の縄文人であった・・による支那一般住民に対するご乱行の伏線となった、というのが私のとりあえずの考えです。(太田)

(続く)