太田述正コラム#6252(2013.6.6)
<近世欧州の実相(その3)>(2013.9.21公開)

 「徴税はまだきわめて非効率的だったので、銀行家達が一層重要な役割を果たしていた。
 1557〜1662年の時期、スペインの累代の国王は12回も破産しており、その都度、銀行家達が、統治者の債務群のリスケ(restructure)のための介入を行わなければならなかった。」(A)

 「外交、官僚機構、そして技術を強調するところの、これまでの、この時期を対象とする大部分の軍事史書に挑戦し、マルティネスは、中世の欧州の諸戦争が、戦闘を「罪に対する罰」と見るキリスト教、「神のための殺人」を正当化したプロテスタント宗教改革、碌に給与が支払われず、かつ、十分補給されていなかった諸軍隊による、一般住民に惨害を与えたところの私的利得の追求、によって形作られてきたものである、と描写する。

→欧州では、近世において、上は法王・皇帝から王侯貴族、下は傭兵や一般住民に至るまで、それぞれが私的利得の追求を神を持ち出して正当化した結果、妥協ができなくなり、対立・抗争は極端化・恒常化した、ということです。
 近代に入ると、神が死んだ結果、しばらく小康状態が訪れたものの、現代に至って、神が衣替えして登場したところの諸イデオロギーが先鋭化した結果、再び近世的な極端化・恒常化した対立・抗争が、欧州を中心に、全球的に招来されるのです。
 そして、現在は、欧州が没落してくれたおかげで、全球的に、相対的に平和な時期を我々が享受することができている、というわけです。(太田)

 交渉が公式に整った時でさえも、諸都市が掠奪されるのは珍しいことではなかった。
 そして、生存ぎりぎりの諸経済の希少な諸資源を巡って争う過程で、互に惨めな諸集団であった兵士達と農民達が諸集落を破壊した。
 行き当たりばったりでいて組織的だった暴力に直面することによって市民諸社会が解体される一方で、「脆弱にして手におえない(unruly)」諸軍隊は、まともな町々の人口をしばしば上回る人数からなる寄生型のコミュニティへと発展して行った。
 掠奪と疫病が直接的にもたらした損失は、戦争によって生み出されたいかなる抽象的な経済的刺激<という利得>をもはるかに上回る、とマルティネスは結論付ける。
 更に、急に出現した財政的・軍事的国家は、諸軍隊のふるまいをそっくりそのまま写しとる(replicate)とともに、自分達の臣民達から強制的に諸資源を抽出することによって、戦争を維持した。
 <すなわち、>君主達と傭兵達との違いは、単に程度の差に過ぎない、ということをマルティネスは示すのだ。」(B)

 「教会、修道院、大修道院(abbey)、そして司教座聖堂(cathedral)は、貪欲な兵士達が山分けするための豊かな資源を提供したのであり、諫言したり抵抗したりしようとした僧侶等の宗教的人物達は容赦なく一刀両断にされた。・・・
 もし誰かが<自分達にとって>好ましくない宗派に属しておれば、その者の首は、道徳もくそもなく、それがつながっている胴体から切り離された。
 こういう具合に、西欧の平野と丘陵と森における、2世紀半に及ぶ止むことなき戦争は進行したのだ。
 <この本では、>ブリテン諸島で起こっていた同等に暴虐的な諸行為には比較的小さなスペースしか割かれていない。
 もっとも、それだって沢山あったのだが・・。
 クロムウェルという名前は、アイルランド人の口の端では、ひどい呪いの言葉である<ことからもそれは分かる。>」(G)

→書評子によるこの指摘は必ずしも正しくないのであって、まず、この時期において、イギリスでは(私の言うところの、文明を異にする)西欧地域に比べて暴虐的な諸行為が顕著に少なかったこと、また、(文明的には西欧に属すところの)スコットランドでは暴虐的な諸行為は平均的な西欧地域に比べて比較的少なかったこと、かつ、(これまた文明的には西欧に属すところの)アイルランドでは、それがイギリスにとっての(最初の)植民地であってそこでイギリスが民族解放運動に直面したという特殊事情があったものの、それでも暴虐的な諸行為は平均的な西欧地域ほどは多くなかったこと、から、全体としても平均的な西欧地域よりも相当暴虐的な諸行為が少なかったことから、著者は、ブリテン諸島における暴虐的な諸行為にスペースを割かなかった、と私は考えます。(コラム#6014を参照のこと)(太田)

 「宗教、王朝的貪欲、或いは大きな地政学的諸再編成(realignments)によって動機づけられた欧州の王侯達は、彼らの統制外にしばしば飛び出してしまったところの、軍事力の繋ぎひもをはずした。
 すなわち、彼らは兵士達にきちんと給与を支払ったり食わせたりすることを怠ったため、彼らが徴用したところの兵士達は、武器を持ち、飢えていていた怒れる男達にやりたい放題のことをされるという大災害を数百万人もの非戦闘員達に与えたのだ。
 20世紀の二度にわたる世界大戦より前の欧州史のどの時期においても、この近世(early modern period。1450〜1700年)の間のように、かくも広がった闘いにして、かくも全体的な紛争はなかった、とマルティネスは主張する。
 ルネッサンスの間には、しばしば継続的なものではあったものの、戦争というものが、小さい規模で闘われ、相対的に一般住民の死傷者が少なかった中世(medieval period)からかろうじて出現しつつあったところの、封建的行政・兵站制度の上に、戦争の新しい諸スタイルと数千人<単位>の兵士達を徴兵する諸能力が押し付けられていたのだ。」(C)

 「マルティネス氏は、平均的軍隊を、それが、20,000から30,000人の兵士に加えて、同じ位の数の(女性、靴の修理屋、大工からなる)駐屯地追随者群から成り立っていたところ、「動き回る都市」と描写した。
 それは、荷物と火砲車列によって動きが緩慢化され、一日にわずか12マイルしか進めなかった一方で、自らを食わせるために常に動き回っていなければならなかった。
 これらの「マンモスのような捜索・食餌諸機関」は、欧州の全地域を荒廃させた。
 ハードウェアだらけではあっても、このような諸軍隊は脆弱であり、流行病(epidemic)に罹りやすかった、とマルティネス氏は注記する。
 時代時代の主要な軍事的動きと疫病(plague)の流行の間にはおおむね合致がある。・・・
 18世紀になると、<ようやく、>欧州の常備諸軍の規律がより厳格になり、戦争はより抑制されたものになった。
 「我々は、農民達に生きるために必要な穀物を残すだけでなく、とりわけ、次の戦役が同じ地区で行われると考える理由を我々が持っているのであれば、我々はもう一回の収穫のために種を蒔くための穀物をも残すことに最も注意深くあるべきだ」と1754年に一人のフランスの騎兵将校が記した。
 時には、啓蒙された私欲(self-interest)が戦争の凶暴さを緩和する、ということだ。」(A)

(続く)