太田述正コラム#6250(2013.6.5)
<純文学と人間主義(その1)>(2013.9.20公開)

1 始めに

 本日、「芸術と科学」シリーズの最終回のコラム(#6036)を一般公開したばかりですが、そのコラムの中で、「芸術は人間主義の推進を図る」と記したところ、一般に芸術の一種とされる純文学について、そんなことは必ずしも言えないのではないか、という趣旨のコラム(英ノッティンガム (Nottingham)大学のクレゴリー・カリー(Gregory Currie)哲学教授執筆)がNYタイムスに載っていた
A:http://opinionator.blogs.nytimes.com/2013/06/01/does-great-literature-make-us-better/?hp
(6月4日アクセス)ので、CSモニターに掲載されたところの、このコラムに対する反論コラム(米著述家のアニー・マーフィー・ポール(Annie Murphy Paul)執筆)
B:http://ideas.time.com/2013/06/03/why-we-should-read-literature/
(6月5日アクセス)ともども、ご紹介しておきたいと思います。

 なお、上記コラム等を紹介した記事↓もあります。
http://www.csmonitor.com/Books/chapter-and-verse/2013/0604/Can-books-make-us-better-people?nav=95-csm_category-topStories

2 純文学と人間主義

 (1)人間主義化否定論

 「『アンナ・カレーニナ』や『ミドルマーチ』<(注1)>の良き人々や<『失われた時を求めて』の>マルセル<(注2)>とその友人達<、といった>偉大なる文学を読むと、我々の想像力は拡大し、我々の道徳的かつ社会的感受性は洗練されたものになるのだろうか。・・・

 (注1)ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』。粗筋が下掲に出ている。↓
http://d.hatena.ne.jp/hans_castorp/20070504
http://d.hatena.ne.jp/hans_castorp/20070511
 (注2)マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の主人公。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7938/2/ff032007.pdf
文学的フィクションには文明化的(civilizing)価値がある<のだろうか。>・・・
 文学との邂逅を通じて、我々は、より他人のことを気に掛ける、より賢明な人々になる<のだろうか。>・・・
 我々は、人々に、子供が殺される、短い、陰鬱な物語を読ませると、彼らは、それを読まなかった人々に比べて、その後、この世界について、より悪い感情を抱く旨報告することを知っている。
 かかる諸変化は極めて短期間しか続かないように見えるものの、フィクションが我々のボタンを押すことを示しているが、かかる諸変化の中には、感情的ないし他の形で我々をより洗練された存在にすることまでは含まれていない。
 フィクション的物語の背景の一部として述べられた、ないしは示唆された、事実に係る情報を我々が拾い上げがちである、と喧伝されることを我々は学んできた。
 奇妙なことに、その物語が自分の家から遠くの場所に設定されているほど、より人々にその傾向が顕著にあらわれる。・・・
 <しかし、繰り返すが、>トルストイを読むと人々は道徳的ないし社会的により良くなることを示唆する説得力ある証拠を我々は持っていないのだ。・・・
 マーサ・ヌスバウム(Martha Nussbaum)<(注3)>は、彼女の影響力のあった著書の『愛の知識(Love’s Knowledge)』の中で、物語の形態は、文学的フィクションに道徳的洞察力を掻き立てる特異な力を与える、と主張した。

 (注3)1947年〜。米国「の<女性たる>哲学者、倫理学者。・・・ニューヨーク大学卒業後、ハーヴァード大学で修士号および博士号を取得。現在、シカゴ大学教授。ユダヤ系ドイツ人」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%A0

 すなわち、ヘンリー・ジェイムズ(Henry James)<(注4)>のような文学の名手(master)の手にかかると、フィクションは、個人的利害によって作られた種々の歪みなしに我々が考え抜くことが可能となるところの、生き生きとした詳細を提示する道徳的論点の諸シナリオを我々に与えることが可能だというのだ。・・・

 (注4)1843〜1916年。米国「生まれでイギリスで活躍した作家・小説家。英米心理主義小説の先駆者としても知られる。兄はプラグマティズムを代表する哲学者・ウィリアム・ジェイムズ。・・・19世紀から20世紀の英米文学を代表する小説家・・・ハー<ヴァ>ード大学に進学するが、一年で中退。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA

 文学の便益をマーサ・ヌスバウムのような人々が主張した理由の一つは、真に質の高い文学ないしフィクション的物語が、複雑なものを扱っているところにある。
 文学は、我々が面倒な(messy)実生活における意思決定に直面した時に、非常にしばしば役に立たないことが証明されるところの、単純な道徳的諸規則から我々の顔をそむけさせてくれるのであって、感受性の高い、違いの分かる道徳的諸主体が遂行すべきであると想定されているところの、暴風下において社会的世界をわたる旅行の準備を整えてくれる、というのだ。
 換言すれば、文学は、我々が道徳的「専門家群」になる、ないしは、道徳的「専門家群」に近付くこと、を助けてくれるというのだ。・・・
 <ところが、>研究に次ぐ研究が、専門家が考慮しようと頭を悩ます諸要素よりもはるかに少ない諸要素を勘定に入れた単純な諸規則を順守することが、専門家の判断に依存することと比べて同等の、いや一般には、それより良い成果をあげること、を示してきた。
 (諸規則がとりわけ良い成果をあげるということではないけれど、専門家の判断よりは良い成果をあげる、ということだ。)
 この見解の若干の証拠・・専門性の見事なまでの失敗の事例として、ワインの将来価値、野球選手の成績、新生児達の健康、そしてカップルの結婚生活の安定性の展望、の予測・・が、ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)<(コラム#5212、5214、5216、5218、5220、5222、5431)>の最近の本である『Thinking Fast and Slow』<(コラム#5567、5212)>の中で説得力ある形で呈示されている。・・・
 <もとより、>美学的価値(aesthetic merit)、ないしは、よりもっともらしい美学的「諸」価値なるものは存在する。
 それらは、特定の作品特有の(articulate to)ないしは特定の作品に帰すことができない複雑な代物だ。・・・
 <しかし、>・・・ようやく勝ち取った文学の愉楽群を享受する多くの人は、自分達が読んだものから美学的諸報酬を受け取ることだけでは満足しない。
 彼らは、かかる努力が、自分達を、より道徳的に啓蒙させもしたのだ、と執拗に主張したいのだ。
 しかし、それこそ、我々がまだ分かっていない<(まだ検証できていない)>事柄なのだ。」(A)

(続く)