太田述正コラム#6236(2013.5.29)
<パナイ号事件(その1)>(2013.9.13公開)

1 始めに

 既に(コラム#6181、6228と)二度登場したところの、TAさん提供の笠原十九司『日中全面戦争と海軍--パナイ号事件の真相』(青木書店 1997年)の概要を紹介し、私のコメントを付したいと思います。
 なお、笠原は、1944年生まれで東京教育大文学部卒の都留文科大学名誉教授であり、「同大学院修士課程中退。宇都宮大学教育学部教授、都留文科大学教授<等>を経て、・・・東京大学 学術博士・・・<となる。>
 南京大虐殺研究者の1人。南京大虐殺紀念館の虐殺犠牲者を三十万人以上とする見解は根拠がなく過大に見積もられているとするものの、少なくとも十万人以上の虐殺があったとする立場をとる。本来は中国近代経済史が専門だったが、1980年代半ばから南京大虐殺の研究を開始し、歴史認識論争に巻き込まれたことで、戦史研究が主となった。・・・
 笠原は、著書『南京事件』III章の扉の写真として、・・・『日寇暴行実録』(中国国民政府軍事委員会政治部、1938年)に掲載されていた写真を、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載した(原典のキャプションは「江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、陵辱され、輪姦され、銃殺された」というものであった)。しかしこの写真は実際には『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された。笠原は、朝日新聞カメラマンが撮った写真を中国国民政府軍事委員会政治部が悪用したものであったことに気づかず、自らが誤用してしまったことを謝罪した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%8F%B8
という人物です。

2 パナイ号事件

 「アメリカの歴史書においてパナイ号事件に「真珠湾への序曲」「日米戦争への序曲」というキーワードが使われるのは、パナイ号撃沈と真珠湾奇襲とは、規模は異なるものの、日本海軍機の「不意討ち」「騙し討ち」という「卑怯な行為」によってアメリカが戦争を挑発されたことにおいて共通するという認識を示している。それはまた、日中全面戦争の初期にパナイ号事件を引き起こした戦争環境  が、そのまま膨張を続けて、日米戦争(アジア太平洋戦争)開戦にいたったという歴史認識に立っている。
 アメリカの歴史書が、パナイ号事件を「日米戦争への序曲」と叙述するときに、かならずセットで記述されるのが南京大虐殺事件・・・である。同じ南京攻略の渦中で発生した両事件は、日本軍国主義の不法性、侵略性、残虐性の内実が、コインの両面の形で、露呈したものとみなされた。」」(13〜14)

→ここは興味深い指摘です。米側の認識はそんなものだろうとは思いますが・・。(太田)

 「私が深刻な衝撃を受けたのは、村山内閣が政策方針で提起した侵略戦争反省と謝罪の決議を、形式的には議会制民主主義の手続きをとおして、国民の側がその実現を妨げ、骨抜きにしたことであった。政府ではなく、国民の動向が国の政策を誤らせることがあるという事実を知った。このことは、戦争政策と国民の関係を考えるとき、一方的に戦争に動員され、犠牲となった国民という単純な構図ではなく、国民の側に戦争政策に便乗、加担し、戦争拡大になだれ込んでいった側面があったことの責任も問われなければならない、という本書の問題意識になった。」(337)

→本を読むときには序文と後書きをまず読むことにしているのですが、このくだりには呆れました。
 それは、戦前の日本が自由民主主義的国家であったという認識がどうやら著者にはなかったらしく、「国民の側に戦争政策に便乗、加担し」という記述から窺えるように、戦争政策策定の主体は国民ではなかったと著者が思っているらしいことについてです。(太田)

 「パナイ号事件、南京事件に対する日米両国民の歴史認識の隔絶は、主として日本側の歴史研究の遅れと、国民の戦争認識の貧弱さに起因している。」(14)

→著者には米側の歴史認識は絶対に正しいという思い込みがあるようですが、このことを含め、少なくとも日本国民たる著者の「歴史研究の遅れ」と「戦争認識の貧弱さ」には蔽い難いものがあります。(太田)

 「日本国内でマスコミが「報道一番乗り」を競って南京城占領の誤報を流し、官庁が勇み足の祝賀行事の音頭を取り、それに便乗して教育界が生徒・学生を祝賀行進に駆り出していた12月12日、南京では夜明けとともにかつてなく激烈な日本軍の攻撃が開始された。・・・
 12月12日の朝、アメリカの砲艦パナイ号は、日本軍の砲弾を避けて、南京上流約20キロの地点に停泊していた。そのときパナイ号には艦長のヒューズ少佐以下将校・乗組員59名、南京アメリカ大使館員4名、アメリカ人ジャーナリスト5名、イギリス人ジャーナリスト1名、イタリア人ジャーナリスト2名、他1名が乗っていた。パナイ号はアメリカ・アジア艦隊<(注1)>のヤンツー・パトロール(揚子江警備隊または長江警備隊)<(注2)>に所属する河川用砲艦で、1928年に上海の江南造船所<(注3)>で竣工、同艦は・・・450トン、二つの3インチ砲と10挺の口径30ミリ機関銃を備えていた。・・・アロー戦争(第二次アヘン戦争)の結果締結した北京条約(1860年)<(注4)を受け、>・・・アメリカは長江流域でのアメリカの商業活動を護衛する目的で、・・・揚子江警備隊を創設し<てい>たのである。・・・

 (注1)United States Asiatic Fleet。1902年にアジア戦隊(Asiatic Squadron)から昇格し、1907年に再び戦隊に格下げになったが、1910年に復活した。1942年に第7艦隊に編入。
http://en.wikipedia.org/wiki/Asiatic_Fleet
 (注2)Yangtze Patrol。1854年から1941年まで行われた、揚子江流域での米海軍のオペレーション。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yangtze_Patrol
 (注3)江南造船廠。自強運動の際に1685年の創設され、爾来、一貫して国営。機械製品・電気製品、圧力容器、建築用鉄材も生産した。現在、空母建造可能な乾ドックを持つ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jiangnan_Shipyard
 (注4)正確には、1860年の北京条約(Convention of Peking)で英仏露米に揚子江の軍艦の自由通航等を認めた1858年の天津条約(Treaty of Tientsin)が清の皇帝によって批准された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Convention_of_Peking
http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Tientsin

 パナイ号は、3日前まで南京の下関(シアカン)埠頭に停泊していた。それは、日本軍包囲下の南京城内に、15人のアメリカ人宣教師らが戦争難民救済のため残留し、さらに5人のアメリカ人記者・カメラマンが踏みとどまって取材活動をしていたため、これらのアメリカ市民を保護するためであった。しかし、日本軍・・・<による>陸上からの砲弾と、空からの爆弾に追われるようにして、少しずつ南京から遠ざかっていたのである。
 このときパナイ号に乗船していた南京アメリカ大使館員は、<文官2名、武官2名>の4名であった。・・・<彼らは、>駐華大使ら主要スタッフが11月23日に武漢へ移っていったあとも南京アメリカ大使館に留まっていた。しかし、・・・あまりにも危険になったために、12月9日に大使館を一時閉鎖して南京城内を引き揚げ、無線施設をそなえたパナイ号に臨時の大使館分室を置いたのである。」(20〜23)

(続く)