太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#6206(2013.5.14)
<米孤立主義とリンドバーグ(その2)>(2013.8.29公開)

2 米孤立主義とリンドバーグ

 (1)プロローグ

 「米国は、最初から孤立主義<(注1)>的伝統を有していた。

 (注1)孤立主義(Isolationism)より非介入主義(Non-interventionism)の方が適切だろう。
 非介入主義とは、「政治的統治者は、他国と同盟関係に入ることを回避するとともに、直接的な領域防衛(自衛)と関係のないいかなる戦争をも回避するべきであるとの信条のこと。しかし、大部分の非介入主義者は、自由貿易、自由旅行の支持者であり、一定の国際協定群を支持する点で、孤立主義者と異なる。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Isolationism

 我々自身がこの米国を創建したのは、欧州から<自らを>引き離し(get away)、欧州及びその他の世界のあらゆる紛糾に関わらない(stay away)ためだ、という古くからの観念がある。
 米国は第一次世界大戦に参戦したけれど、それは例外的なことであり、大部分の米国人は、その結果は余り芳しくなかったと信じていた。
 我々が戦争へと赴いたのは、英国と他の同盟諸国をドイツから救うためであり、世界を民主主義にとって安全にするためだったが、そうはならなかった。
 我々が得たのはヒットラーだったのだ。
 ヒットラーが呈示しているのは、異なった脅威であって、我々は恐らくは介入(get in)しなければならない、という観念はなかなか普及しなかった。・・・
 軍事指導者の大きな集団・・陸海空軍の高位の将校の大部分とは言えないかもしれないが多く・・もまた、ローズベルトの政策、とりわけ英国を助ける政策、の足を引っ張ろうとしていた。・・・
 私は、軍部にはかなり軍国主義的な部分があるものと思っていたけれど、軍部のお歴々の多くは戦争に赴くことに大いに反対していた。
 彼らは、我々は自衛だけに徹するべきだと考えていたのだ。
 彼らは、各軍に所属しながら、米議会の孤立主義的議員達やチャールズ・リンドバーグに情報を漏洩<することになる。>」(A)

 「第一次世界大戦は、それが終わってから、米国では信じがたいほど不人気な戦争となった。
 ・・・我々は<この大戦で>若者50,000人を失ったというのに、見返りに何も得られなかったのだから。・・・
 というわけで、・・・我々は、一度は君達<(英国)>を救うために戦争に赴いたけれど、そんなことは二度とやらないぞ、というわけだ。
 つまり、そんなことをする理由が我々にはない、と。
 思うに、英国に対して大きな怒りがあった。
 というのも、我々を赴かせるために、英国は、第一次世界大戦中に信じられないほど洗練されたプロパガンダ作戦を発動したからだ。
 だから、米国人達は、英国を疑いの念で見ており、英国がまたもや同じことを試みるのではないかと恐れていたのだ。」(E)

 (2)両陣営

 「シュレジンジャー(Schlesinger)<(注2)(コラム#851、3421、4365、4993)>は、マッカーシズムやベトナム戦争がらみの暴力的な政治的諸議論を経験した人間だが、1939年から41年にかけての争いは、彼が経験した中の最悪のものだったと回想する。

 (注2)アーサー・M・シュレジンジャー(Arthur Meier Schlesinger, Jr.。1917〜2004年)。「[ハーヴァード大卒。]ピューリッツァー賞を2回およびバンクロフト賞を受賞した。ニューヨーク市立大学名誉教授。自由主義者でジョン・F・ケネディ大統領の補佐官をかつて務めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_M._Schlesinger,_Jr. ([]内)

 一方の陣営は、その事実上の指導者は・・・リンドバーグだったが、米国は欧州での戦争には関わらずに英国とナチスドイツの間の平和の仲介をすべきだと信じていた。
 著名な孤立主義者には、ヘンリー・フォード(Henry Ford)、<後のケネディ大統領の父親の>ジョー<(ジョセフ)>・ケネディ・シニア(Joe Kennedy Sr.)<(注3)>がいた。
 (注3)Joseph Patrick "Joe" Kennedy, Sr.。1888〜1969年。ハーヴァード大卒。ローズベルト「の大統領選出時(1932年)に財政支援を行った功によって、初代証券取引委員会委員長(1934年)、連邦海事委員会委員長(1936年)、<駐英>米国大使(1938年〜1940年)の任命を受けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BBP%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3
 「1940年11月10日のボストン・グローブ紙日曜版にのったこの談話<の中で、彼が、>「民主主義はイギリスでは死んだ。<米国>にはまだあるかもしれない。・・・<英国>は別に民主主義のためにナチスと戦っているのではない、ただ自己保存の戦いをしているのだ。」と言った(ウィキペディア上掲)ことで、彼は、大使の職を退かなくなったばかりか、米大統領になる野望も打ち砕かれたことは興味深い。
 挙国一致内閣になって久しく、政党間の議論が行われず、選挙すら行われなくなって久しい当時の英国は民主主義の国とは到底言えない、という意味ならば、ケネディの言は間違ってはいない。しかし、それは外交官として、或いは政治家候補者として口にしてはならないことだった。

 政治家では、いずれも上院議員である、バートン・ホィーラー(Burton Wheeler)<(注4)>、ロバート・タフト(Robert Taft)<(注5)>、ジェラルド・ナイ(Gerald Nye)<(注6)>、そして下院議員のハミルトン・フィッシュ(Hamilton Fish)<(注7)(コラム#2428)>がいた。

 (注4)1882〜1975年。弁護士・民主党政治家。ミシガン・ロースクール卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Burton_K._Wheeler
 (注5)1889〜1953年。共和党政治家。ハーヴァード・ロースクール卒。「父は大統領、最高裁判所長官、陸軍長官を歴任したウィリアム・ハワード・タフト。・・・ニュルンベルク裁判を、法の不遡及を犯す「勝者の裁きに他ならない」として批判した・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%88
 (注6)1892〜1971年。共和党政治家。高卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gerald_Nye
 (注7)Hamilton Fish III。1888〜1991年。ハーヴァード大卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hamilton_Fish_III

 彼らを支えていた草の根組織は米国第一委員会(America First Committe)と呼ばれたが、それは、エール大学と全米学生反戦運動から生まれた。・・・
 米国第一の会員ないし支持者には、若きジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)、<やはり後に大統領になる>ジェラルド・フォード(Gerald Ford)、そして、サージェント・シュライヴァー(Sargent Shriver)<(注8)>がいた。」(B)

 (注8)1915〜2011年。エール・ロースクール卒。ジョンソン大統領特別補佐官、駐仏大使。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sargent_Shriver

 「<また、>キングマン・ブリュースター(Kingman Brewster)<(注9)>、ポッター・スチュアート(Potter Stewart)<(注10)>、・・・カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut)<(注11)>、ゴア・ヴィダル(Gore Vidal)<(注12)>、ノーマン・トマス(Norman Thomas)<(注13)>は、みな、米国第一の初期における支持者達だった。」(C)

 (注9)1919〜88年。エール・ロースクール卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kingman_Brewster,_Jr.
 (注10)1915〜85年。エール・ロースクール卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Potter_Stewart
 (注11)1922〜2007年。小説家、エッセイスト、劇作家。コーネル大、カーネギー工科大、テネシー大で学び、シカゴ大修士(人類学)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%88
 (注12)1925=2012年。小説家、劇作家、評論家、脚本家、俳優、政治活動家。フィリップス・エクセター・アカデミー卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E3%83%AB
 「ニューハンプシャー州エクセター<の>ボーディングスクール(寄宿制中等教育機関)・・・アメリカ合衆国内では最多の寄付金額を誇る中等教育学校・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC
 (注13)1884〜1968年。長老派の牧師。プリンストン大卒。6度米社会党から大統領選に立候補した。日系人強制収容に反対し、人種隔離政策に反対し、ナチスに迫害されたユダヤ人の受け入れを唱えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Norman_Thomas

 「ジェラルド・フォードはエール・ロースクールの学生だった。
 彼は、米国第一の創建者の一人だ。
 ポッター・スチュアートは後に最高裁判事になるが、彼も創建者の一人だ。
 サージェント・シュライヴァーは、後に平和部隊(Peace Corps)の初代責任者になるが、彼も創建者の一人だ。
 キングマン・ブリュースターもそうだが、彼は後にエール大学長になり、また、まことに皮肉にも駐英米国大使になもなる。
 米国第一の支持者になった学生の一人がジョン・F・ケネディであり、彼は、当時、ハーヴァード大の4年生だった。・・・
 つまり、米国第一は、1940年時点で学生の間で極めつきに人気のある組織だったのだ。・・・
 <このように、>米国第一は、一群のエールの学生達・・エール・ロースクール学生とエールの学部学生・・によって創建されたのだった。」(E)

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/