太田述正コラム#6190(2013.5.6)
<ドイツ中心近代史観(その9)>(2013.8.21公開)

 (6)シムズ批判

 「欧州の全体を考察するというのに、この本が拠っている一次及び二次史料は英語とドイツ語のものだけだ。・・・
 このことが、この本が均衡のとれない諸判断を下した部分について、<それがどうしてかの>幾ばくかを説明するかもしれない。
 <例えば、>1870年代のフランスを、「欧州で最も高度に軍事化された社会」と描写することは、甚だしい的外れだ。
 ロシアは言うに及ばず、その頃フランスからアルザス・ロレーヌを奪って併合したドイツはどうなのだ?」(A)

→通常、こういう批判に対しては、ためにするものである、で片付けるべきなのですが、母国語以外にドイツ語しかできないからシムズは誤ってドイツ中心史観を打ち出した、という誹りを受けても仕方がないでしょうね。(太田)

 「この本は、その宣伝文句であるところの、支那やアラブが維持することができなかった諸特性(qualities)と政治的諸戦略に至上的存在になったゆえんを負っている、ということ検証する(explore)ことに失敗している。・・・
 <また、>統合(unity)は外からの脅威が顕在化した場合にのみなる、と彼は言う。
 (しかし、これには疑義がある。
 法王ボニファティウス8世<(Boniface VIII)(注25)>は1300年にモンゴル<の襲来(注26)>を歓迎したし、16世紀のフランスは、ハプスブルグ家を叩く棍棒としてオスマントルコを扱ったからだ。・・・

 (注25)1235?〜1303年。法王:1294〜1303年。その傑作な人物像と事跡は知っておく価値がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B98%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
 (注26)モンゴルと言っても、当時、欧州と接していたのは分裂後のジョチ・ウルス(いわゆる「キプチャク・ハン国)だが、「ボニファティウス8世は1300年を「聖年」に定めて盛大な祭典(聖年祭)を挙行し、ヨーロッパの全聖職者のローマ巡礼を強制して死後の天国行きを確約した。聖年を定めたのはボニオファティウス8世が最初であり、それ以前には聖年を祝うことはなかった。ローマには多くの巡礼者が集まり、フランス王フィリップの教会課税で苦境に陥ったローマ教会の財政は潤いを取り戻した」(ウィキペディア上掲)という以上のことは分からなかった。

 シムズは、・・・<15〜16世紀における>欧州の優位を過大評価しているのかもしれない。
 オスマントルコと支那は、自分達にとって不利益なことに、この時期に反対意見と革新を<欧州諸国に比べて>より抑圧していたことは確かだが、もし我々がこの両者が完全に自閉的であったと考えるのならそれは間違いだ。
 英国には欧州史の歴史家は数多いるが、東洋のスルタンや皇帝の大臣(visier)達が頻繁に自分達の諸政策に係る代替的アプローチについて議論をしていたことを指摘するような東洋史の専門家は一握りしかいない。
 オスマントルコと支那が新世界を活用することに失敗した・・両者ともタバコはすぐに採用したけれど、オスマントルコでさえ、トウモロコシとトマトを受容するのに1世紀もかかった・・ことは、欧州の興隆の最もささいな理由では、ほぼ間違いなく、なかったことだろう。」(B)

 「外交政策の優位については、・・・諸反対事例もあるけれど、<この本では、それらが>明確には呈示されていない。
 そして、それらの事例においては、外交と内政の区別は真の意味では機能しないのかもしれない。
 国家が宗教的理由で戦争に訴える場合、特に16〜17世紀において、追求したのは外交的課題なのか内政的課題なのか?
 また、交易を守るために実施された戦争はどっちに分類されるべきなのだろうか?
 シムズは、1830年代におけるコブデン(Cobden)<(注27)>等の運動家達について、「穀物法の破棄<(注28)>と国際自由交易の推進は国内における自由主義の確保とそれによるところの国外での平和の確保であり、後者による前者の確保でもあった」と記すが、これではどっちが優位にあったのか分からないではないか。

 (注27)Richard Cobden。1804〜65年。[大学に行っていない。アダム・スミスに強い影響を受ける。平和主義者。]「英国の政治家。自由放任主義者で自由貿易を主張し、J=ブライトとともに穀物法反対運動を成功させた。」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/81525/m0u/
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Cobden ([]内)
 (注28)「イギリスでは中世末期から穀物の輸入を規制する法律があったが、1815年ナポレオン戦争終結の際、地主が優勢だった議会は戦後も穀価を高く維持するため、国内価格が1クォーター80シリングに達するまで外国産小麦の輸入を禁止する穀物法を定めた。その後、穀価の騰落に応じて輸入関税を増減する方式に改められたが、1839年反穀物法同盟が組織されてからは産業資本家層が中心となって激しい運動を展開し、1846年にはピール内閣により穀物法廃止が行われた。・・・安価な穀物の供給により賃金の引き下げを狙う産業資本家と単純に安価なパンを求める労働者は、穀物法廃止という点について利害の一致をみていた。・・・<英国の農業>は<欧州大陸諸国>に比べ、高い生産効率を誇っていたが、自由貿易により危機感を煽られた地主貴族および農業資本家が導入した高度集約農業(ハイ・ファーミング)によって、<英国>農業は更なる進歩を遂げ<、そ>・・・の繁栄は1870年代まで続<いた>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%80%E7%89%A9%E6%B3%95

 そして、彼は、ヒットラーの反ユダヤ主義は、そのルーツが「大戦略」・・「世界のユダヤ界(World Jewry)」によってコントロールされているところの敵対的大国群による包囲の恐怖に由来する・・であると示唆するけれど、ユダヤ人に対する憎しみは、この総統の、外交と内政に係るあらゆる思考の前提(concition)ではなかったのか、という疑問を抱かざるをえない。」(E)
 「シムズは、外交と戦争を過大評価(overplay)し、経済と内政を過小評価する傾向がある。
 例えば、30年戦争は主としてドイツの領域内で戦われたが、この戦争を終わらせたところの、ウェストファリア条約の目的は、「ドイツ諸侯が無制約の主権を行使することに対する防御」を超えるものだった。
 <また、>フランス革命の駆動力は欧州という舞台において国家的偉大性を再確立することであったと言うのは誇張だ。
 <更にまた、>イギリス内戦、1688年の名誉革命、米独立戦争、そして穀物法の破棄を主として英国の外交政策のせいにするのも行き過ぎだ。

→シムズの主張を、近代以降、内政と関係のない外交/戦争はあるけれど、外交/戦争と関係のない内政はない、ととらえなおせば、このような意味での外交の優位は疑いないのであり、シムズの主張は「行き過ぎ」の部分こそあれ、基本的に正しい、と言うべきでしょう。(太田)

 常にドイツが一番重要だった(mattered most of all)というのも間違いだ。
 ドイツとともに、オスマントルコ、スペイン、フランス、そしてロシアによる、異なった時代における欧州の支配の試みの各々に対して、焦点を切り替えつつ、勢力均衡を維持することの方に大部分の国の関心は向けられていた<からだ>。
 しかし、シムズ氏が、英国と米国の歴史において、欧州に対する関心が中心に据えられていたとするのは正しいのであり、このことは、今日の<英国おける>欧州懐疑論者( Eurosceptic)が覚えておいていいことだ。」(C)

→ここは、まことにもってその通りです。
 我々日本人としては、英国のこのような欧州大陸フェティシズムが20世紀の世界の悲劇をもたらした、ということを覚えておく必要があります。(太田)

 「タカ派的な民衆に駆り立てられた国王達と外交官達による高尚な力の演技が、政治、宗教、財政、そしてイデオロギーの変容をもたらすことによって近代性を創造した<、とシムズは言う。>
 しかし、<シムズは>時々行き過ぎる。
 <例えば、>ロシア革命は、本当に「ドイツとの紛争をより精力的に遂行することに皇帝が失敗したことに対する…抗議」だったのだろうか。」(D)

→何度も申し上げているように、シムズのドイツ中心主義は問題ですが、この事例に限っては、シムズの側に軍配を上げるべきでしょうね。(太田)

3 終わりに

 シムズ程度で、(というと語弊がありますが、)歴史家として通り、それなりの評価も受けられるのであれば、私だって歴史家として通るのかも、といささか不遜な感想を抱きました。

(完)