太田述正コラム#6176(2013.4.29)
<フォーリン・アフェアーズ抄(その22)>(2013.8.14公開)

1 始めに

 TAさん提供のForeign Affairs Report, April 2013, No.4から、下掲のさわりをご紹介し、私のコメントを付します。

2 ピーター・アンドレアス「不法貿易というアメリカの暗い過去--米経済を支えた密輸と知的所有権の侵害

 アンドレアスは、「ブラウン大学ワトソン国際研究所所長、政治学教授<です>。」(73)

 「アメリカは・・・国境を越えた犯罪<の>・・・被害者であるどころか、世界のいかなる国と比べても、不法貿易の豊かな伝統を持つ国だ。建国以来、アメリカは不法貿易に手を染め、密輸をベースとする資本主義で経済の発展を支えてきた。・・・
 アメリカの工業化が開花した18世紀末から19世紀初頭にかけて、アレキサンダー・ハミルトン<(コラム#518、812、2846、2877、2890、3148、3321、3329、4302、4308、4382、5033、5774)>のような建国の父たちが、繊維産業を中心に知的所有権の乱用、技術の不正入手をと使用をあえて奨励したことを、われわれは都合よく忘れてしまっている。
 ハミルトンは1791年に著書『製造業に関する報告書』で、たとえそれが他国の法に触れることになろうとも、「ヨーロッパで使われているあらゆる機械を調達すべきで、そのためなら、適切な資金を出すだけでなく、(不正に伴う)必要な痛みも引き受けなければならない」と主張している。この報告書は、ほとんどの国が「自国で開発または改良された方法(技術)や機械の輸出を禁止し、違反にはペナルティーを課している」と指摘しつつも、実質的な産業窃盗(インダストリアル・セフト)を奨励している。・・・
現在ワシントンはこのような知的所有権の侵害を取り締まる路線を世界的に主導しているが、 19世紀の状況は正反対だった。積極的に不正コピーを取り締まることもなかった当時のアメリカで海賊盤が広く出回っていた事に激昂していたのは、チャールズ・ディケンズやアンソニー・トロロープといったイギリスの作家たちだった。1831年に成立したアメリカの著作権法は国際的な著作権の盗用という問題を完全に無視していた。アメリカが国際的な著作権スタンダードを受け入れ始めたのは、マーク・トウェインなどのアメリカ人作家たちが著作権侵害の被害者になってからだった。・・・
 「「自国の知的所有権が盗用の対象になるまでは、政府が知的所有権の適切な保護に努めることはない」というアメリカ史の教訓を思い出すべきだ。もちろん中国がテーブルにつくまで座して待つべきだと言うつもりはない<が・・。>」(67〜69)

→21世紀の中共が、少数の中国共産党員が多数の非党員たる国民を差別し、かつ、都市部に戸籍(戸口)を持つ(2011年から多数派となった)
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE80H02320120118
国民が持たないところの少数派の国民を差別するとともに、知的所有権盗用を旨とする国であることと、19世紀の米国が、多数派の白人が少数派の黒人奴隷とインディアンを差別するとともに、知的所有権盗用を旨とする国であったこととは、まことによく似ており、両国はならず者国家(rogue state)という形容がぴったりとあてはまる国であったし国である、と言ってよいでしょう。(太田)

 「独立戦争前のアメリカ商人たちは大西洋を舞台とする密輸経済の主役だったし、特に、ニューイングランドが蒸留酒生産用に西インド諸島から糖蜜を密輸入していたことは有名だ。そして、アメリカがイギリスに対して反乱を起こした理由の一つは、イギリスがこの密貿易を弾圧した<(注1)>からだった。

 (注1)「<英国が>1733年<に>成立<させた>・・・糖蜜法[(Molasses Act)]・・・は英領でない植民地から輸入される糖蜜に1ガロン当たり6ペンスを課すことによって英領西インド諸島産の糖蜜を保護するためものだったが、植民地の課税逃れのために実際に徴収されることはなかった。<1764年に成立させた>砂糖法[(Sugar Act)]は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する一方、徴税の強制力を強めたものである。また、課税対象もワイン、コーヒー、衣類などに広げられた。もっとも密貿易者とそれを取り締まる職員には甘いものとなっていた。英国はフレンチ・インディアン戦争(1754年〜1763年)で負った莫大な負債を返済するための資金集めという意図が強かった。・・・
 砂糖法に対してはまだ抗議運動はそれほどには盛り上がらなかった。強い抗議が始まるのは、翌年後半に印紙法が制定されてからである。・・・植民地側は「代表なくして課税なし」の原則を理由としてこれに反対。翌年には同法を廃止させた。砂糖法<も>1766年に撤廃され<る>。<しかし、>1767年<には、>・・・茶・ガラス・紙・鉛・塗料などに関税をかけるタウンゼンド諸法<が制定され、>本国製品の不買運動など広範囲の抵抗を招いた。その中でボストン市民5人が駐留英軍に射殺されるボストン虐殺事件も起こり、急進派によって反英プロパガンダに利用されたこともあいまって世論の反発はいっそう強まった。結局、イギリス本国は・・・、茶税だけを残しタウンゼンド諸法を撤廃した。 1773年、イギリスは新たに茶法を制定した。これは、茶税を逃れようとして植民地側がオランダ商人から茶を密輸入していたのを禁じ、大量の茶の在庫を抱えて財政的に行き詰まったイギリス東インド会社に植民地での茶の販売独占権を与えるものであった≪が、これに反対してボストン茶会事件が1773年に起こり、翌1774年に米独立革命が始まる。≫」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96%E6%B3%95
http://en.wikipedia.org/wiki/Sugar_Act ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E8%8C%B6%E4%BC%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (≪≫内)

 イギリス当局は、アメリカの商人たちが18世紀半ばの七年戦争<(フレンチ・インディアン戦争)>でフランス軍に物資を供給して蓄財していたことにも強く憤慨していた。イギリスは独立戦争前の10年間に軍事的な密輸弾圧作戦をとるようになり、これに反発した植民地の民衆による反乱が相次ぐようになった。税関船が燃やされ、税関職員と情報提供者は捉えられ、さらし者にされた。
 植民地の反乱に加担した寄せ集めの海軍が世界最強のイギリス海軍を打ち破ったのも密貿易の知恵を生かしたおかげだった。アメリカの密輸業者たちは自分たちの不法な輸送方法、スキル、ネットワークを駆使して、アメリカの革命勢力に武器と弾薬を提供した。利益だけではなく愛国心にも突き動かされた密輸業者たちは(戦時に敵国と戦う民間の)私拿捕船としても活動し、ジョージ・ワシントン率いるにわか仕立ての海軍に加わった(イギリス側はこれらの私拿捕船を海賊とみなした) 。

→要するに、米独立革命なるものは、北米英領植民地人中、カネのためならば大逆的行為を含む不法行為を犯すことを厭わない連中が、カネを目的に、カネに藉口して・・七年戦争戦費回収と英駐留軍経費負担反対を唱えて・・起こしたところの、まことにもってあざとく醜い出来事であった、と言ってよいでしょう。(太田)

 独立を果たした後かなり時間が経過しても、不法貿易はアメリカの国際舞台での台頭を支える強力な原動力であり続けた。特に、不法貿易を背景に、第一世代のアメリカ大富豪が誕生したことは注目に値する。ジョン・ジェイコブ・アスター<(注2)>は1848年に死去したときにアメリカ最大の資産を持つ、最初のマルチ・ミリオネアだったが、彼は密輸で身を立てた人物だった。アスターは様々な不法貿易に関わっていた。アヘンを東アジアへ送り込んだだけでなく、1812年の英米戦争の際には敵勢力と取引をし、ネイティブ・アメリカンに毛皮を提供することで当時禁制品だったアルコールを入手し、売りさばいた。

 (注2)John Jacob Astor。1763〜1848年。「ドイツの貧しい家の出・・・<ただし、>祖先は[現在のイタリア北西部・・・とフランス東部・・・、ジュネーヴ(現スイス)も含んだ<地域>]サヴォイから逃げてきたフランス系のワルドー派教徒・・・であり、ロンドンに、続いて<米>独立戦争後の<米国>に移民した。無学。五大湖やカナダに跨る毛皮貿易帝国を作り上げ、後には、<米>国西部や太平洋岸まで拡大した。1800年代初期、ニューヨーク市の不動産を・・・<、そして、その後>アヘン<貿易も>・・・手掛け、後には美術の著名なパトロンになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E5%85%AC%E5%9B%BD ([]内)
 なお、ワルドー派は、「12世紀の中世<欧州>で発生したキリスト教の教派の1つである。カタリ派と並んで中世<欧州>を代表する異端として扱われた。当時ローマ・カトリック教会側からは二元論的異端として断罪されたが、近年では福音主義的・聖書主義的特性から宗教改革の先駆とも評される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC%E6%B4%BE

 アスターが例外的な存在だったわけでもない。1831年に死去した当時、アメリカ最大の資産家だったスティーブン・ジラード<(注3)>も、中国とのアヘン貿易など、様々な密輸を通じて財を築いた人物だ。

 (注3)Stephen Girard。1750〜1831年。フランスに生まれ、米独立戦争の最終年の1776年に米国に移住。無学。商人、銀行家にして慈善事業家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_Girard

 フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の祖父ウォーレン・デラノ・ジュニア<(注4)>も同様に不法貿易を通じて財産を築いている。もっとも、デラノは「公平で高潔であり正当な貿易」を行なっていると信じ、1729年にアヘン禁止令を出した清朝の当局が、自分をならず者だと考えてることなど、まったく意に介さなかった。 」(69〜71)

 (注4)Warren Delano, Jr.。1809〜98年。支那貿易を盛んに行う。
http://www.geni.com/people/Warren-Delano/6000000001637221067
 デラノの祖先は、北フランス出身で、1621年に英領北米プリマス植民地に移住した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Delano_family

 「アメリカの国境管理は常にずさんだった。当初からアメリカとメキシコの経済関係が密輸によって規定されていたし、アメリカとカナダとの関係も同様だった。禁酒法の時代の(ミシガン州)デトロイトと(隣接するカナダの)ウィンザーには、現在の(テキサス州)エルパソと(隣接するメキシコの)シウダー・ファレスと同様に確立された密輸ルートが存在した。さらに言えば、メキシコからの移民が最大の国境問題になるずっと前から、アメリカの南北国境地帯はどちらも、中国とヨーロッパからの移民の不法入国のルートだった。・・・

→21世紀の中共と19世紀の米国の最大の違いは、誰も前者に不法移民するどころか、正規移民すらしようとしない点でしょう。(太田)

 しかし、イギリスが1700年代後半に海軍を投入して植民地の密輸を弾圧したときのように、取り締まりを軍事化して逆効果になったケースがあることを忘れるべきではない。ベンジャミン・フランクリンもそうした軍事化路線を批判し、1773年に次のように皮肉を込めてイギリスに忠告している。

 勇敢で誠実な海軍将校たちを粗末な乗船税関監視官や植民地税関の役人にするのもいいだろう。戦時には自国民の商業活動を守るために雄々しく戦う彼らに、平時には(アメリカの)商業活動を餌食にするようにと教えるのも悪くない。そうすれば、彼らに密輸業者から腐敗を学ばせることができる。 (イギリス兵の勤勉を示すために)武装ボートに乗って、植民地の沿岸線のあらゆる港湾、河川、小川、入江を捜索させ、海岸付近を航行する船、ボート、漁船を検査し、乗船者を抑留すれば、見事な成果が上がること間違いなしだ。

 フランクリンがこの皮肉に満ちた文章書いてから多くのことが変化したが、軍隊を反密輸部隊に仕立て上げることに対する彼の基本的な批判はいまも有効だ。兵士は立派な警察官にはなれないからだ。
 兵士は誰かを逮捕したり拘束したりするのではなく、敵を殺すための訓練を受けており、市民の自由を尊重しないこともある。兵士の高圧的なやり方はまさに彼らが保護すべきコミュニティーとの関係を損なうかもしれない。密輸業者や他の犯罪者を取り締まる任務を兵士に与えれば、腐敗が兵士たちを蝕んでいく。」(71)

→米国に移住したところの、イギリスからのキリスト教原理主義者達や一発屋にしても、スコットランド/アイルランドからの食い詰め者にしても、そして、アスター、ジラード、デラノのような欧州大陸出身者にしても、カネのためならば、イギリス本国等の法を平気で破って恥じない人物ばかりであった、と言えそうです。(太田)

(第8部完)