太田述正コラム#6166(2013.4.24)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その5)>(2013.8.9公開)

 ここで、4月15日に起こったボストン爆破事件にからむ挿話を一つご紹介しておきましょう。
 フレンチ・インディアン戦争による財政危機の解消を目的として、英本国が英領北米植民地に課税しようとしたために、植民地で反税闘争が行われていた最中の1770年3月・・独立革命が始まるのは1775年・・に、ボストン駐留英軍に対する数百名のボストン市民による示威運動が起こり、英軍に対して雪の塊や岩を投げつけたので、英軍が発砲し市民5人が死亡するという、いわゆるボストン虐殺(Boston Massacre)事件が起きました。
 指揮官の大尉とかれの部下の兵士達が植民地政府によって起訴された時、彼らの弁護士になろうとする者が誰も現われなかった時に、ジョン・アダムズ・・後に米第2代大統領
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA >・・が決死の覚悟で彼らの弁護を買って出、この大尉のほか兵士6名は無罪となり、残りの兵士は過失致死(manslaughter)の罪で親指にmの焼き鏝を押し付けられる刑に処せられています。
http://www.aclu.org/national-security/john-adams-and-boston-massacre
 ここから分かるのは、いかに英国臣民の自由ないし(手続き的権利を含む)権利が、英国の僻地においても確立していたか、です。
 (こんな状況下で、政府側が兵士達を起訴したこと自体が驚異です。)
 これを、フランス革命の始まりとされる、1789年7月のバスティーユ襲撃(Storming of the Bastille)と比べてみてください。
 「<廃兵院で小銃を奪った>群衆<によるバスティーユ牢獄>襲撃が始ま<り、>恐怖にとらわれた守備兵が発砲して・・群集側には98人の死者、73人の負傷者が出<、>・・・守備隊側<に>は、・・・死者1名、負傷者3名<が出た。>・・・<その後、パリ>市庁舎・・・で、<バスティーユの司令官>は、・・・殺され、首を刎ねられた。3人の士官と3人の守備兵も、司令官と同じ運命を辿った。さらに市長・・・も、・・・射殺され、首を刎ねられた。彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群集は、市庁舎前の広場を練り歩いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A6%E8%A5%B2%E6%92%83
 この双方の乱暴狼藉に対して、その後、刑事的対処がなされたという話は寡聞にして知りません。(英語ウィキペディア↓にも全く言及がない。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Storming_of_the_Bastille
 前者は革命直前であり、後者は革命冒頭である、という違いこそあるけれど、英国に比べていかに同時代のフランスが遅れていたか、そして、フランスの民衆がいかに無知蒙昧というか、野蛮であったか、が分かろうというものです。

3 結論

 こんなマリー・アントワネットとともに、(ルイ14世や15世に比べて、むしろ優れていたとさえ言える)ルイ16世(注11)を断頭台に送ったのは、マリー・アントワネット、ひいてはフランス王室の評判を、首飾り事件を通じて、故なく決定的に貶めたところの、フランスの特権階級の矮小性と民衆の無知蒙昧さ、つまりはフランスの後進性であった、というのが私の結論です。(注12)

 (注11)彼は、「当時のフランス国民(パリ市民)にヴァレンヌ事件・・[フランス革命時の1791年6月20日から翌朝にかけて国王ルイ16世一家がパリを脱出し、22日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕された事件]・・までは絶大な人気を得ていた。・・・財政再建のための改革に・・・積極姿勢を示した<ものの>、・・・啓蒙専制君主であ<り、>・・・農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などをすすめ、科学や地理探検にも理解があり、その支援者<に任じ、>さらに三部会<が>召集<された時、>第三身分をもって第一身分、第二身分の特権を突き崩そうとした・・・。<また、>読書家で<も>あり、ディドロらの『百科全書』も購入しており、・・・冒険旅行の本も好んだ。ラペルーズを太平洋探索の大航海に派遣したのは、・・・王の個人的な関心のなせるところでもあった。・・・<彼の>遺言書は「全てのフランス人に告ぐ」と題されており、逃亡の理由を説明すると共に、革命派を厳しく批判し、「国王の元に戻れ」と国民に呼びかけている。」
 彼の冒した愚行は、米独立革命の支援くらいだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A416%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ([]内)
 (注12)首飾り事件に関する日本語ウィキペディア(前掲)が、この「事件をフランス革命の契機の1つとする<者>もいるが、フランス革命は、王妃マリー・アントワネットの不人気とは全く関係ないところで勃発しており、拡大解釈でフィクションといってよい」と何の典拠も付さずに記しているのは理解に苦しむ。対照的に、英語ウィキペディア(前掲)は、正しく、この事件は、「フランスの人々にブルボン王制を不信任させたという点で重要だ」と(やはり典拠は付されていないものの)記している。

4 終わりに

 いくら太田の映画評論はストーリー評論であると言っても、今回のは、首飾り事件の評論であって映画評論ではないのではないか、と言われそうなので、あわてて弥縫策です。
 エヘン!
 この映画は、首飾り事件の概要をおおむね正しく学ぶことができるとともに、当時のフランスの特権階級の退廃ぶりを肌で感じることができるので、鑑賞する価値がある、と申し上げておきましょう。
 特権階級が、いかに公の精神に乏しく、権力や名誉やカネの追求だけに明け暮れ、かつまた、いかにその男女関係が乱れに乱れていたか、がよーく分かりますよ。
 お後がよろしいようで・・。

5 おまけ

 以下、この映画に触発されて、私の頭の中を駆け巡った想念の一端です。

 イギリス/英国「の名誉革命<(1688年)>に始まるフランスとの対立は、ナポレオン戦争が終結する<(1815年)>まで100年以上に及んだ。これは第2次百年戦争と総称されることもある」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E6%9C%9D
ところ、「一連の戦争においては<米>独立戦争を除いて全てイギリス</英国>が<フランスに>勝利し」た結果、欧州大陸(除くロシア)を統一する1回目の試みは失敗に終わり、第一次世界大戦(1914年〜)から第二次世界大戦(〜1945年)にかけての、今度はドイツによる2回目の試みもまた、英国のせいで失敗に終わったこと、を我々は知っています。
 なお、(1945年から1989年にかけての、ロシア(ソ連)による西欧の共産化の試みもありました(注13)が、)EUは、平和的手段による、その3回目の試みであると言えるでしょう。 

 (注13)ブレンダン・スミス(Brendan Simms)は、欧州を統一する試みが、これまで、ルイ14世、ナポレオン、ヒットラー、及びスターリンによって(都合4回)なされたとし、そのことごとくが、欧州の他の諸国が一致団結して行った抵抗によって失敗に帰した、という趣旨のことを指摘している。
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/37d90f60-a5d7-11e2-b7dc-00144feabdc0.html#axzz2QyQJ2Yk2
 しかし、これは、イギリス/英国が欧州大陸における反統一勢力を糾合させる中心的役割を果たしたことからあえて目を逸らせた指摘だ。

 第2次百年戦争をイギリス/英国がフランスと戦ったことに関しては、1688年の名誉革命以降、フランスがジェームズ2世及びその嫡流をフランスに匿い、その復辟を支援する一方で、フランスの膨張に抗してアウグスブルク同盟に加わって戦っていたオランダの総督のオラニエ公ウィレムがウィリアム3世としてイギリス王に就任し、1689年イギリスをこの戦争に参戦させた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A03%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
ことから始まったという経緯があった上に、イギリスは、対仏戦争の立ち上がりにおいてオランダという同君連合の国を欧州大陸の一角に持ち、また、1714年にハノーヴァー朝になってからは、今度はハノーヴァー王国という同君連合の国を欧州大陸の一角に持っていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E6%9C%9D
ことから、(1715年にルイ14世が亡くなってからも、)引き続き、英国は、欧州大陸の列強としても対仏戦争を続けざるをえなかったと言えるでしょう。 
 その事情は、7年戦争における英国の勝利(フランスの敗北)によるフランス植民地の消滅によっても基本的に変わらず、フランスの米独立革命支援やナポレオンの全欧州大陸席巻により、英国は、一層対仏戦争に力を傾注することを強いられた、と言えるでしょう。
 この過程で、英国は、不可抗力であったとはいえ、フランス革命を発生させてしまい、その結果、欧州大陸にナショナリズムという、民主主義独裁・・怪物・・を生み出してしまうわけです。
 しかし、1823年に、英国とハノーヴァー王国とは切り離され(ウィキペディア上掲)、しかも、既に世界帝国となっていたのですから、爾後は、欧州統一を妨げる営みから手を引き、もっぱら、ユーラシア大陸全般にわたってロシアの抑止にあたることに専念しなければならなかったのです。
 1853〜56年の英国の対露戦争(クリミア戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
や、1904〜05年の日本による対露代理戦争(日露戦争)は、まさに、英国がかかる国益を踏まえた「正しい」営みでした。
 しかし、その英国は、第一次世界大戦で、欧州大陸の覇権国になりつつあったドイツを叩く形で、またもや、欧州大陸の統一を妨げる、という国益に反する行動を、しかも、かつてフランスを叩く過程で民主主義独裁を生み出してしまったという苦い経験を顧みない行動を、とってしまうのです。
 (その結果生まれた共産主義とファシズムは、ナショナリズムよりもはるかに恐ろしい怪物であったわけです。)
 英国のこの夢遊病者的行動が、20世紀において、いかなる悲劇を世界中にもたらしたかは、我々が周知しているところです。 

(完)