太田述正コラム#6162(2013.4.22)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その3)>(2013.8.7公開)

 (2)時代背景及びフランスの特権階級の矮小性

 この映画の中では出てこないのですが、ルイ15世の放蕩とその放蕩に係る顕示的浪費が悪評を買った背景として、ルイ14世と15世が行った戦争が余りうまくいかず、とりわけ15世は大敗北を喫し、戦費が嵩んで財政が悪化し、ルイ16世もまた、実り少なき戦争を行った上、本格的な増税を行おうとした、ということがあります。
 すなわち、ルイ14世については、「治世後半のアウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A414%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
ところ、ルイ15世については、「オーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政を逼迫させた。七年戦争では・・・1763年2月、パリ条約<で>・・・フランスはカナダ、ルイジアナ、西インド諸島の一部を含む広大な植民地を失った。この条約は「フランス史上最もみじめな条約」と呼ばれた。・・<この>戦争のために財政はひどく悪化し<た>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A415%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
という次第であり、ルイ16世は、「<英国>の勢力拡大に対抗して<米>独立戦争に関わり、<米国独立>を支援するなどしたため、財政はさらに困窮を極<め、>・・・財政の決定的な建て直し」を図ることを最大の目的として、1789年に、1614年以来、175年ぶりに三部会を招集したことが命取りとなってフランス革命が始まるのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A416%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%A8%E4%BC%9A

 ここで登場した、アウグスブルク同盟戦争(1688年〜97年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%90%8C%E7%9B%9F
http://en.wikipedia.org/wiki/Nine_Years_War
は北米大陸ではウィリアム王戦争(1689〜97年)(注4)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
として、スペイン継承戦争(1701〜13年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
は北米大陸ではアン女王戦争(1702年〜13年)(注5)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
として、オーストリア継承戦争(1740〜48年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
は北米大陸ではジョージ王戦争(1744〜48年)(注6)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
として、そして7年戦争(1756〜63年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
は北米大陸ではその1年前からフレンチ・インディアン戦争(1755〜63年)(注7)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
としても、仏英間で戦われた、ということが重要です。

 (注4)9年戦争、大同盟戦争、パラティン継承戦争とも呼ばれる。オランダ総督のウィリアムの英国王就任に伴い1689年からイギリスも大同盟側で参戦。フランスはアルザスを獲得したがロレーヌ及びライン川以西は放棄した。北米では「英仏・・・植民地の境界は「戦前の状態に」戻された。」
 ちなみに、ロレーヌは、1766年に平和裏にフランスに併合される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%85%AC%E5%9B%BD
 (注5)「<イギリス/英国を含む>反フランス同盟の最大の目的であった<ところの、ルイ14世の孫のブルボン家の>フェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、・・・フランス<の膨張>は抑制され・・・ることになった」。北米では、「<イギリス/英国>はニューファンドランド島とハドソン湾地域をフランスから譲渡されて獲得し<た。>」
 (注6)「相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やしてオーストリアの弱体化を図ったフランスの企ては見事に失敗し<た>」。北米では、英仏植民地の境界は戦前の状態に戻された。
 (注7)「<欧州>においては、<英国>の財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)及びドイツ諸侯との間で戦いが行われ」、フランスは、オーストリアと結ぶという外交革命までやってのけていたけれど、オーストリア継承戦争の際にプロイセンに奪取されたシュレージエンをオーストリアに回復してやることができなかった。しかも、「フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北<米>の植民地のほとんどを失った。」
 ちなみに、フランスは、1762年に秘密裏にスペインにルイジアナを割譲した上に、翌1763年に英国にミシシッピ川の東側とカナダを割譲したが、1800年に秘密裏にスペインからルイジアナを取り戻し、これをその3年後の1803年にナポレオンが米国に譲渡した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%A0%98%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%8A

 そして、米独立戦争(1775〜83年)は、フランスが、(7年戦争の戦費が嵩んだこともあっての北米駐留英軍経費確保のための増税に反対して独立を宣言した)米国と同盟条約を締結することで国際戦争(1778〜83年)に転化します。(後にスペインとオランダも米国側に立って参戦します。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89

 つまり、こういうことです。
 フランスは、ルイ14世の治世の晩年に、その欧州における接壌的膨張がほぼ止められてしまった一方で、スペインにブルボン家を国王として送り込むことに成功し、事実上の恒久的仏西同盟の構築にこそ成功したけれど、ルイ15世の治世において、植民地のほぼ全部を失うに至った、というわけです。
 そして、フランスのこの接壌的膨張の抑制と植民地の喪失の全てにイギリス(1707年からは英国)が関わっており、ルイ16世は、その意趣返しのために、(フランス自身は何の得るところもないところの、)米独立戦争への加担を行い、ここにフランスの財政悪化はその頂点に達し、フランス革命が起きるのです。
 総括的には、フランスの歴代国王が、17世紀から18世紀にかけて断続的に仏英戦争を中核とする戦争を続けた結果、戦費が嵩み、それが米国の独立と、フランス革命を引き起こした、と言ってよいのではないでしょうか。
 
 いささか先を急ぎ過ぎました。
 時計の針を少し戻しましょう。
 首飾り事件の容疑者達は、1785年8月に一斉に逮捕され、マリー・アントワネットが最高司法機関であるパリ高等法院に裁判を提起し、翌1786年5月に判決が下されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%A3%BE%E3%82%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲 また、彼女の夫の「ルイ16世は・・・<、僧侶(第一身分)と貴族(第二身分)の>免税特権の廃止によって<財政>の改善を図ったが、・・・パリ高等法院<(Parlement)>は、全国三部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張し・・・た<ため、同>国王は1788年7月に全国三部会の開催を約束し<、>翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日、ヴェルサイユで開会式が行われ<まし>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD
 ちなみに、「高等法院は売官制により官職を購入した法服貴族により構成されて<おり、>通常の司法権限だけでなく、勅令や法令の登記や国王に建言する立法的行政的権限も有しており、・・・特権<階級>を擁護する彼らはしばしば王権と対立した」が、諸高等法院中、「パリ高等法院は北部と中部のほとんどを占める最も広い管轄地域を有しており、単に「高等法院」と呼ばれた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%B3%95%E9%99%A2_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9)
ところです。
 つまり、パリ高等法院は、第一身分と第二身分の階級的利益を事実上代弁して、1786年には、首飾り事件で、王室、就中マリーアントワネットを傷つける判決を下して革命の機運を醸成し、その2年後の1788年には、三部会の開催を求めることで革命の舞台を整える、という、特権階級にとっての自殺的愚行を犯した、ということです。
 これは、フランスにおいては、特権階級が、(イギリスの貴族とは大違いで、)いかに自分達の特権の擁護だけに汲々とし、国全体を支える気概が乏しかったかを物語るものです。

(続く)