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太田述正コラム#6150(2013.4.16)
<迫害を捏造したキリスト教(その4)>(2013.8.1公開)

 (4)ローマによる「迫害」?

 「モスは、キリスト教の最も神聖化された諸伝説に挑戦する。
 すなわち、彼女が呼ぶところの、「殉教者達の教会という日曜学校の物語、すなわち、逮捕を免れるために秘密裏に集会を持ち、単に彼らの宗教的諸信条だけのために容赦なくライオンの群の前に投げ出され、恐怖からカタコンベ群に群れ集ったキリスト教徒達<という物語>」に疑問を投げかけるのだ。
 このうち、真実であるものは皆無だ、と彼女は主張する。
 イエスの死から皇帝コンスタンティヌスの<キリスト教への>改宗に至る300年の間に、散発的な10ないし12年において、ローマの帝国当局によるキリスト教徒を対象とする抑圧があったけれど、その場合ですら、このような動きの実態はいい加減至極であり、厳格に行われる地域もあれば、適当に行われる地域もあった。
 <すなわち、>「キリスト教徒は、継続的に標的とされる迫害の犠牲者になったことはない」とモスは記す。
 <モスは、>最初の殉教者群に係る6つの<事例についての>「いわゆる真正なる叙述(accounts)」を綿密に読み込む。
 <この6つの中には、>2世紀中に火刑に処せられたスミルナ(Smyrna)<(コラム#4438、4440、4442)>の司教たるポリュカルポス(Polycarp)<(注9)>、3世紀初頭にカルタゴの広場で彼女の奴隷のフェリシティ(Felicity)と共に処刑されたところの、裕福な家に生まれた若き母親で聖ペルペトゥア(Perpetua)<(注10)の事例>が含まれる。

 (注9)69年?-155年?。「火刑にされたが、それでは死なず、刺し殺された。・・・彼はローマのクレメンス、アンティオキアのイグナティオスと共に三人の使徒教父の一人である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%82%B9
 (注10)この2人は203年に刑死したと信じられている。(ペルペトゥアは181年頃生誕。)2人とも聖人に叙されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Felicity_(martyr)

 モスは、これらの物語と我々がローマ社会について知っている限りのものとの間の諸矛盾を注意深く指摘する。
 殉教者達が殺された時にはまだ存在すらしていなかったところの、諸異端に対するあてこすり(digs at)や、まだ成立していなかったところの、殉教の諸伝統への言及とかを・・。
 これらの物語や311年にパレスティナ人のエウセビウス(Eusebius)<(注11)>が書いたキリスト教会の最初の実質的な歴史書に、幾ばくかの真実の核心はあった、と彼女は説明する。

 (注11)263?〜 339年。「ギリシア教父の一人であり、歴史家にして聖書注釈家。314年前後からカエサレア・マリティマの司教(主教)を務めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%BB%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B9
 カエサレア・マリティマは、「ヘロデ大王が紀元前25年ごろからパレスティナの<現在の>テルアビブの近くに建設した<都市>。・・・パレスティナではもともと良港が少なかったため、カイサリアは重宝され、ユダヤ人やギリシャ人など多民族の混住地となった。ローマ帝国もカイサリアの海上交通の利便さに目をつけてここをユダヤ属州の首都とし、ローマ総督と軍隊の駐屯地とした。・・・最初の異邦人キリスト教徒はこのカイサリアで誕生した・・・。・・・カイサリアでユダヤ人虐殺が起きたことがユダヤ戦争の引き金となった・・・。・・・<ユダヤ戦争を契機に、>ローマ軍が・・・エルサレムを破壊すると、カイサリアはパレスティナ第一の都市となり、初期のキリスト教の中心もエルサレムからカイサリアへ移った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BE%BA%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%A2

 だからと言って、後の時代の諸正統(orthodoxies)を強化するための準備(ax-grinding)や試みであったところの、色彩鮮やかな諸発明と真実とを分別することは不可能だ。 モスは、現存するローマ時代の諸記録についても検証する。
 彼女は、皇帝ディオクレティアヌスの下で303年から306年の間における、<各種機関が>協調してなされた、唯一のローマによる反キリスト教キャンペーンの間に、キリスト教徒達が公職から追放されたことに言及する。
 <その時、>ニコメディア(Nicomedia)<(注12)>で帝国の宮殿と通りを挟んだ向う側にあった、彼らの教会を含む彼らの教会群が破壊された。

 (注12)現在のトルコのイズミット(izmit)。「3世紀後半、専制君主政を創始したローマ皇帝ディオクレティアヌスは、帝国を4つに分けて統治する政策をとった。この際、ニコメディアは東方正帝(ディオクレティアヌス)の支配拠点となり、・・・ローマ帝国の東の都<となった。>・・・コンスタンティヌス1世・・・は次の首都が設立されるまでの6年間、ニコメディアに住んだ。330年にコンスタンティヌスはビザンチウム近郊に、新ローマ(コンスタンティノープル)の創設を宣言した。337年コンスタンティヌスは、ニコメディア近郊の別荘で亡くなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88

 しかし、モスが指摘するように、キリスト教徒達は、そもそも高い公職に就いており、<だからこそ、>彼らの教会を「皇帝自身の御前の広場に」建設していた<ことがこのことから分かる>わけだ。
 つまり、ディオクレティアヌスが彼の勅令をキリスト教徒達に対して発出するより前に、彼らがカタコンベ群に隠れていた、などということはありえない、ということだ。
 だからと言って、キリスト教徒達の若干が、身の毛のよだつ諸方法でもって、かつ我々が異様なまでに正義に悖ると思うような状況下において、処刑されたことを否定する、ということではない。
 しかし、モスは、「迫害(persecution)」と「告発(prosecution)」とを区別することが重要である、と説明する。
 ローマ人達は、囚人人口を養うことは望まなかったので、一見ささいな非違行為に対しても死刑を科すのは普通のことだった。
 中傷的な歌を書いたら、撲殺刑を宣告されることだってありえたのだ。
 モスは、キリスト教徒が、単にキリスト教徒であることのために処刑された事例と、ローマ人達が政府転覆的ないし大逆的活動とみなすことに従事したのを非難された事例とを区別する。
 「日常的諸理想と社会諸構造」が帝国にとって必須であると見做していたローマ人達からすれば、公然と皇帝の神聖なる父を否定したり、軍役を拒否したり、法廷の権威を受け入れることを拒否したりすることは、かかる逸脱的諸行為に含まれるのだった。
 この本の最も魅惑的な諸章のうちの一つにおいて、モスは、(「平和主義なる概念を持たなかった」ところの)ローマ人達にとって、キリスト教徒達・・そもそも彼らについて<ローマ人達が>考えることがあったとしてだが・・がいかに当惑させ迷惑であったかを説明しようと試みる。
 キリスト教徒達は、ローマの諸法廷に様々な理由で引き立てられたが、ひとたびそこに至ると、彼らはリベリアン(Liberian)という名の信者がそうしたように、「皇帝に敬意を払うことはできないのであって、キリストに対してのみ敬意を払う」などと宣明しがちだったのだ。
 モスは、これを、「法廷ないし政府の権威を認めず、神の権威だけを認めるという、現代の被告達」と比較する。
 古代ローマ人達にとってと同様、現代の米国人達にとっても、これは、不吉である、或いは頭が殆んどいかれている、ように聞こえてしまう、と。
 しかも、初期のキリスト教徒達は、殉教への熱情にかられていた、ときてたのだから・・。
 苦しみを味わうことは、殉教者の敬虔さと<キリスト教という>宗教それ自体の真正性を共に証明することであった上、それは当人にとって、即時に、天国における一等席を与えるものであったのだ。
 (通常のキリスト教徒は最後の審判の日まで待たなければならなかった。)
 <実際、>自分の信仰のために死ぬ機会を意図的に求めていた狂信者達がいた、という報告がなされている。
 例えば、小アジアでローマの役人の戸口に現れ、殉教させられることを求めた群衆がいたが、そんな願いなど知ったことかとこの役人は彼らを追い払ったという。・・・
 彼女は、「迫害された<キリスト>教会という観念は、完全に4世紀及びそれ以降の発明だ」と記す。
 <しかも、>これは、まことにもって銘記すべきことだが、コンスタンティヌスのおかげで<キリスト>教会が「政治的に安全」になった時期の間のことだった。
 にもかかわらず、初期の年々におけるキリスト教についての真実の説明を提供する代わりに、4世紀の学者達と僧職者達は、身の毛のよだつ、体系的暴力の諸物語を次から次へと創り出したのだ。
 これらの物語は、さりげなく・・そしてまた、それほどさりげなくでもなく、・・異端的諸観念や諸宗派に対するプロパガンダとして用いられた。
 それらの物語は、個人的には、かなり安全であった信者達にとっての、魅力的かつスリルに満ちた楽しみともなったのだ。」(C)

(続く)

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