太田述正コラム#6144(2013.4.13)
<迫害を捏造したキリスト教(その2)>(2013.7.29公開)

 (2)迫害/殉教物語の原型

 この本の抜粋の中から、キリスト教徒の迫害/殉教物語の原型を探ってみましょう。

 「初期のキリスト教徒の殉教文学を少し研究するだけで、キリスト教徒達が、古代ギリシャ、ローマ、そしてユダヤの死に関する伝統の影響を受けていることが分かる。
 古典世界の英雄達がキリストのための兵士達へと変形されたのだ。
 人々は、キリスト教徒達が<古典世界の英雄達>の遺産の承継者であることを認めるに当たっては、選択的にこれを行った。
 多くの人は、キリスト教徒たる殉教者達が、古代ユダヤ教の殉教の衣鉢を継いでいること、いや、<殉教者達が>少なくともそう主張していることを認めている。
 マカバイ一族(Maccabees)<(注4)>への言及ないしマカバイ一族との比較<がなされていること>は、キリスト教徒達が自分達の殉教者達をこの伝統の一部であると見ていることの議論の余地のない証拠だ。・・・
 
 (注4)「<アレクサンドロス大王の家臣の一人であった>セレウコス1世の建てたセレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスはエルサレムを占領するとエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害して、偶像崇拝を強要した。このため、モデインという町に住んでいた祭司マタティアと五人の息子たちが蜂起した(紀元前167年)。その息子の一人がマカバイと呼ばれたユダ<(Judah)>であった。これ以降の独立闘争をマカバイ戦争(マカバイの反乱)と呼ぶ。・・・
 アンティオコス4世エピファネスがリュシアスにユダヤ制圧を命じ<るも、>・・・紀元166年・・・大敗を喫し、ユダと一時的に休戦した。シリア側は宗教的な自由の回復を認めた。ユダはついにエルサレムを奪還し、異邦人に汚されたエルサレム神殿の聖所を清め、再びヤハウェに献納して中断していた神殿でのユダヤ教の礼拝を復活させた。ハヌカーはこれを記念するために制定された(紀元前165年キスレウ25日)。またヘンデルのオラトリオ『マカベウスのユダ』はこの故事に取材したものである。・・・
 紀元前160年1月、<セレウコス朝>は<再び軍勢を派遣し、>・・・エルサレムを目指した。ユダの軍は脱走兵が続出し、残ったのはわずか800人に過ぎなかった。戦闘を避けるよう懇願されたユダは、敵前逃亡を拒否し、兄弟たちのために男らしく死のうではないか言った。ユダはシリア軍との戦闘中に戦死した(ベレトの戦い)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%90%E3%82%A4

 しかし、ギリシャとローマの影響については、話は全く違ってくる。<(注5)>

 (注5)私がネット上で参照したところの、この本の書評等の中には、ギリシャとローマの殉教者の個名は(ソクラテスへの軽い言及・・後出・・を除き)全く出てこないが、英米の人々にとって、一般にどんな「人物」が念頭にあるかを調べてみた。
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 まず、ギリシャについては、下掲の'Martyrs in Greek Mythology'というサイトが参考になる。
 そこには、全て神話上の人物だが、アンチゴネー(Antigone)、アガメムノーン(Agamemnon)、カパネウス(Capaneus)、アキレウス(Achilles)の4「人」が登場する。
http://www.ehow.com/info_8429685_martyrs-greek-mythology.html
 アンチゴネーについては、「テーバイ王ラーイオス・・・は何者かに殺害されてしまう(犯人はオイディプース)。ラーイオスには後継者がいなかった為、王妃イオカステーが国主となり、・・・<彼女>の実弟クレオーンはその摂政として国政を担当した。その後、オイディプースがイオカステーを母とは知らずに結婚し、テーバイ王として即位すると、<クレオーンは>そのまま宰相としてオイディプースの治世を支えた。テーバイにおける災厄の原因追求を巡って、オイディプース王はクレオーンの野心を疑うようになり、両者は次第に対立を深めていく。そして、オイディプースによる前王ラーイオス殺害と母イオカステーとの婚姻問題が露見すると、クレオーンは反オイディプース勢力としての旗幟を鮮明にし、オイディプースを追放、王位に付いた。後にオイディプースとイオカステーの子<である>ポリュネイケースとエテオクレースの兄弟に王権を譲るが、この兄弟間の争いでは、エテオクレース側として暗躍した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B3
 「<アンチゴネーは、>父オイディプースが・・・追放されると、妹イスメーネーとともに父に付き添って諸国を放浪した(・・・。父の死後、テーバイに戻ったが、兄の1人、ポリュネイケースは隣国の助けを借りてテーバイの王位を取り戻すべくテーバイに攻め寄せてくる・・・。しかし、闘いむなしく、・・・攻め寄せた軍は悉く打ち破られ、ポリュネイケースは兄弟エテオクレースと相討ちで戦死。クレオーンは反逆者である彼の屍を葬ることを禁じるが、アンティゴネーは自ら城門を出て、市民たちの見ている前でその顔を見せて兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女は、クレオーンによって死刑を宣告された。アンティゴネーは牢で自害し、その婚約者であったクレオーンの息子ハイモーンもまた自刃した。・・・アンティゴネーの悲劇は、兄への弔意という肉親の情および人間を埋葬するという人倫的習俗と神への宗教的義務と、人工的な法律の対立から来るものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B4%E3%83%8D%E3%83%BC
 アガメムノンについては、「弟メネラーオス(スパルタ王)の妻ヘレネーが、小アジアに位置するトロイアの王子パリスに連れ去られたことに怒り、全ギリシアから志願者を募ってトロイアに戦争を仕掛ける・・・。出征時に逆風が吹いたため船出ができなくなると、娘イーピゲネイアを女神アルテミスに生贄として捧げれば解決するとの予言をうけ、苦悩の果てに娘を殺害してトロイアへ向かった。・・・戦勝後、トロイア王女カッサンドラーを己の愛妾として帰還するが、イーピゲネイアの死を遺恨に思う妻クリュタイムネーストラーとその情夫アイギストスに暗殺される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%83%A1%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%B3
 カパネウスについては、「<前出の>テーバイ攻めの<際の>七将の一人。・・・攻城梯子を使って城壁を乗り越えようとしたところをゼウスに雷霆を撃たれて死んだ。カパネウスの火葬のとき、カパネウスの妻エウアドネーは燃えさかる火葬壇に身を投げて夫とともに焼かれた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%91%E3%83%8D%E3%82%A6%E3%82%B9
 アキレウスについては、「ホメーロスの叙事詩『イーリアス』の主人公である。・・・トロイア戦争<で大活躍するが、>・・・急所のアキレス腱を射られ、<死ぬ。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B9
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 次に、ローマについてだが、Republican Roman;Martyrsで検索をかけると、いの一番に出て来るのが、Marucus Manliusの英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Marcus_Manlius
だ。
 「マルクス・マンリウス・カピトリヌス(・・・Marcus Manlius Capitolinus, 生没年不詳)は、共和政ローマで紀元前392年に執政官をつとめ<てい>た人物。伝承によると、紀元前390年<に>・・・ローマはブレンヌス率いるガリア人に包囲され、敵がカピトルの丘をよじ登ろうしていた時、・・・その場に急行、敵をなぎ倒したと言う。・・・そして<その>数年後、彼は元老院で議員たちが公金を横領していると告発していた時、あるケントゥリオ<(百人隊長)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AA%E3%82%AA
>が債務により牢につながれているのを目にして、自らの懐の金で彼を解放し、また貧しい債務者のために自らの土地を手放したという。しかしながら彼は王に近い権力を手に入れようとしたということで告発され、・・・民会でも非難され<るに至っ>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%94%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8C%E3%82%B9
 「<その上で、>元老院は紀元前385年に彼に死刑を宣告し、・・・その一年後に岩の上から投げられ<てなくなっ>た。」(英語ウィキペディア前掲)
 ここで、もう一人、日本でも良く知られている人物として、マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero。BC106〜BC43年)も挙げておこう。
 彼は、「紀元前44年・・・にカエサルが暗殺された際、・・・直接には関らなかったものの暗殺者を支持しており、数日後にブルトゥス等の暗殺者との会談を行っている。カエサル暗殺後にカエサルの後継者に座ろうとするマルクス・アントニウスに対抗するために当時は一平民だったオクタウィアヌスを政界に召喚<するとともに、>・・・数次にわたるアントニウス弾劾演説を行う。しかし、アントニウスとオクタウィアヌスの間に第二回三頭政治が成立したことにより失脚。・・・<やがて>、キケロはローマから逃げざるを得な<くなり、翌>・・・紀元前43年・・・、アントニウスの放った刺客により殺害された。・・・<キケロは、>ニッコロ・マキャヴェッリ、フーゴー・グローティウスやシャルル・ド・モンテスキュー、ヴォルテールの思想にも大きな影響を与え、・・・共和主義、民主主義の象徴と<されてきた>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%B1%E3%83%AD
 以上のような人物であったキケロは、「史上最高の雄弁家であるとともに、共和主義の殉教者でもある、と考えられている。」
http://books.google.co.jp/books?id=FRnR1_Hc_BQC&pg=PA179&lpg=PA179&dq=Republican%E3%80%80Roman+martyrs&source=bl&ots=lz5CA_JAqN&sig=lUc8ewF-uqgQJ5zXO31FdhXeGHI&hl=ja&sa=X&ei=2MFmUeOxO43OkQX1-IHgCg&ved=0CC0Q6AEwADgK#v=onepage&q=Republican%E3%80%80Roman%20martyrs&f=false
 
(続く)