太田述正コラム#6138(2013.4.10)
<太平洋戦争における米兵のPTSD(その9)>(2013.7.26公開)

 (3)道徳的高みに立っていた日本軍

 以下、この記事↓からの抜粋です。
http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-medoff-roosevelt-holocaust-20130407,0,581781.story
(4月7日アクセス)

 「1943年5月、フランクリン・ローズベルト大統領は、ウィンストン・チャーチル英首相とホワイトハウスで会談を行った。・・・

 ローズベルトは、(地理学者であるジョンズ・ホプキンス大学学長のアイザイア・ボウマン(Isaiah Bowman)<(注9)>によって推奨された)計画・・ユダヤ人を全世界に薄くばらまく・・が良いのではないかと語った。

 (注9)1878〜1950年。ハーヴァード大とエール大で学ぶ。米地理学会会長を1915〜35年の間、20年にわたって務める。ベルサイユ会議にウィルソン大統領の顧問として参加、また、先の大戦中は国務省顧問を務める。戦後、ジョンズ・ホプキンス大学長。

 <この会談に同席していた人物は、その>日記に、「大統領は、これを試してみようとして、[1920年代にローズベルトが住んでいた]ジョージア州の[メリウェザー(Meriwether)]郡とハイド・パーク(Hyde Park)<(注10)>で、それぞれに、ユダヤ人家族4〜5を増やそうとした、と語った、と付記した。

 (注10)ローズベルトが生まれ、彼の田舎の家があったニューヨーク州の町。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hyde_Park,_New_York

 彼は、その程度のことであれば、地域住民は異議を唱えないだろう、と主張した、と。・・・
 米国の移民制度では、ナチ時代におけるドイツ系ユダヤ人の受け入れ数を毎年約26,000人と極端に制限していた。
 しかも、この割り当て数でさえ、ヒットラーの時代の大部分の間、その25%未満しか充たされなかった。
 これは、ローズベルト政権が移民希望者に対して、余りにも多くの追加的要求事項を積み上げたからだ。
 例えば、1941年からは、近しい親戚が欧州に残っているだけで志望者は不適格とされた。
 ナチスがこの親戚を脅して移民者をヒットラーのためにスパイをするよう強いるかもしれないという馬鹿げた仮定に立って・・。
 どうして、この政権は、ユダヤ人難民が米国に来るのを止めさせようとしたり不適格にしたりすることに積極的だったのか?
 どうして、この大統領は、(移民制度を管理していた)米国務省に対し、ドイツと枢軸諸国が占領していた国々については、法的上限目一杯、割り当て数を充たすように、内々伝えなかったのか?
 それだけで、190,000人の命が救われていたはずなのに・・。
 <第一、>そのために、米議会とも反移民勢力とも戦う必要はなかったのだ。
 だから、この大統領にとっての政治的リスクは殆んどなかったというのに・・。・・・
 <しかし、その前後のローズベルトのユダヤ人に関する言動を振り返ってみれば、その理由は明らかだ。>
 1923年に、ハーバード大の理事会の一員だったローズベルトは、同大のユダヤ人学生は多過ぎると思い、入学者数を制限するために割り当て数を設定するよう仕向けた。
 <また、>1938年には、彼は、内輪の話の中で、ポーランドにいるユダヤ人は経済を取り仕切っており、ために、同地において反ユダヤ主義を喚起していることで非難されるべきだ、と示唆している。
 <更に、>1941年には、オレゴン州の連邦政府職員にユダヤ人が多すぎる、と閣議の際に発言している。
 <はたまた、>1943年には、彼は、連合国が解放した北アフリカの米政府の役人達に対し、「ドイツにいるユダヤ人に対してドイツ人達が抱くところの、特定の、かつ理解できる諸苦情<と同じ諸苦情をこの地の住民が抱くこと>がないように」、種々の専門職に就いている当地のユダヤ人の数が「確実に制限されるべきである」と伝えている。
 このほかにも、ローズベルトが心穏やかならざる内輪の言明を行った証拠がある。
 例えば、ユダヤ人難民による懇願を、「ユダヤ的泣きわめき」だの「いつものすすり泣き(sob stuff)」だのだとして取り合わなかったり、(ある上院議員に対して)「私の血管にはユダヤ人の血は一滴も流れていない」と自慢したり、あるユダヤ人たる新聞発行人による節税策を「汚いユダヤ人的ごまかし(a dirty Jewish trick)」と形容したりしている。
 いずれにせよ、ユダヤ人に関するローズベルトの内輪での発言に共通するテーマは、ユダヤ人が、多くの専門職において「溢れており」、過大なる影響力を行使している、という彼の認識に関わっていた。

→先の大戦の頃における、ドイツを敵視していたはずの米国政府のユダヤ人に対するこの冷たい対応を、同じ時期の、ドイツを(便宜的ではあれ)同盟国としていたところの日本政府のユダヤ人に対する人間主義的対応と比較してみてください。
 杉浦千畝が6,000人のユダヤ人を救ったことは良く知られていますが、この6,000人が実際に生き延びることができたのは、杉浦の尽力だけでなく、その他の多くの日本政府関係者の尽力があってこそでした。
 すなわち、ウラジオストックでは「ハルビン学院・・後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」というもの<(=人間主義!(太田))>・・で千畝の二期後輩であったウラジオストック総領事代理・根井三郎」の本省に指示に抗って日本に渡航させたという尽力があり、また、日本では、「難民たちの対応に奔走していた[ところの、神学者で]ユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)」[(1899〜1973年)]の尽力があり、彼が、「満鉄時代の縁を頼りに難民たちの窮状を訴えると、松岡・・・洋右外務大臣・・・は小辻にある便法を教えた。すなわち、避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている、と教えたのである。そこで、小辻は管轄の地方官吏たちを懐柔し、敦賀港に1940年10月9日に上陸時に利用されたゴム印には「通過許可・昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣」となっていたが、「杉原ビザ」を持って<ユダヤ人>らが来港した時には、それが「入國特許・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日・福井縣」に変わっていた」という具合に、松岡外相(!)や内務省の地方官吏達の尽力もあったことを銘記すべきでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA ([]内)
 当時の米国の白人の間でのユダヤ人に対する冷たさは欧州発のキリスト教的偏見に根差す人種主義に由来するわけですが、(欧州文明とりわけドイツ文化の強い影響を受けていたところの)指導層を含め、当時の日本人が、いかに人種主義と無縁であったかが、改めて良く分かろうというものです。(太田)

(続く)