太田述正コラム#6128(2013.4.5)
<第一次世界大戦の起源(その8)>(2013.7.21公開)

 (7)英国

 「英国はその帝国的力が衰えつつあったことから、統一ドイツの勃興に脅威を覚え、ドイツの力の将来の拡大を抑制する試みとして自分達自身が同盟国になっていたところの、フランスとロシアとの協商に入った。」(G)。

 「英国がどのようにしてこの戦争に吸い込まれて行ったかに関するクラークの分析を考えてみよう。
 私は、これまでずっと、英国海軍に挑戦する能力のある艦隊を整備しようとしたドイツ皇帝の決定が、我々をして、欧州大陸への超然主義的政策を捨ててフランスとロシアとの同盟に入ることを強いた、と信じてきた。
 そうではない、とクラークは言う。
 彼は、英国の提督達が、ドイツの水上艦隊が自分達による諸大洋の支配に挑戦することができるとは一度たりとも信じたことがないことを説得力ある形で主張する。
 実際第一次世界大戦の成り行きは、彼らが正しかったことを証明することとなった。
 露仏同盟に調印するとの英国の決定の背後にあった衝動は、ドイツに対する恐れではなく、ロシアに対する恐れだった。
 ロシアは、我々の偉大なる帝国的競争相手であり、ロシアのペルシャ及びアフガニスタンに係る諸国益(interests)は、英領インドの安全に対する脅威だった。
 ロシアを友にしてドイツを敵にする方がその逆よりもよい、と英国の政策決定者達は考えたのだ。」(B)

 「誰しも戦争をやりたがっていたわけではない。
 「[我々]は誰とも喧嘩の種はない」とイギリスのジョージ5世は言った。
 にもかかわらず、英国は、クラークの言い回しによれば、「中立から介入へと」動いたのであり、何十年もロシアを封じ込めることに大わらわだったこの国は、ドイツを封じ込めるために戦争に赴いた自分自身を発見したのだ。」(F)

 「表向きは、英国のこの戦争への介入の正当性は、同盟国であるフランスに対する道義的義務、及び、ベルギー領内を通ってフランスに侵攻する意図を既に表明していたことから、侵される可能性が大であったところの、ベルギーの中立を支える約束の履行、に存した。
 しかし、1914年8月4日の英国の宣戦の前の数日間の英国の閣議での議論の中では、フランスもベルギーもそれほど言及されなかった。
 実際、7月の最終の週に入っても、閣僚の多くはなお英国による介入に反対していた。
 クラークは、英国の宣戦を支えていた真の諸要素は政治的かつ戦略的なものであったことを示唆する。
もし英国の自由党政府の内閣が不介入と決定したならば、外相のエドワード・グレイと首相のH・H・アスキス(Asquith)<(注22)(コラム1152)>は辞任していただろう。

 (注22)Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith(1852〜1928年)。オックスフォード大卒、弁護士、自由党政治家。首相:1908〜16年。「子に映画監督のアンソニー・アスキス、曾孫に女優のヘレナ・ボナム=カーターがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%B9

 これは、この政府の倒壊の引き金となっただろう。
 このような結果を回避することが介入を支持する強い誘因だった。
 戦力的諸考慮もまた枢要だった。
 帝国主義的観点から、英国は、そのアジアにおける諸国益への潜在的脅威であったところの、ロシアとの宥和を欲していた。
 他方、<欧州>大陸主義的観点からは、英国は、欧州における力の均衡を維持してドイツを封じ込めようと欲したのだ。」(J)

⇒「8月4日にドイツに対し宣戦布告した<英国は、>・・・ジョン・フレンチ元帥指揮下に<英>海外派遣軍(BEF)を編成、ベルギーへと派遣した。8月下旬には戦闘加入したものの、ドイツ軍の進撃に押され、フランス領内へと退却したが、マルヌ会戦でドイツ軍に打撃を与えている。その後、西部戦線は塹壕戦となり、膠着状態に陥った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E6%B5%B7%E5%A4%96%E6%B4%BE%E9%81%A3%E8%BB%8D_(%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)
 すなわち、当然「帝国主義的観点」に立って軍事介入を控えなければならなかった英国が、あろうことか近視眼的に「<欧州>大陸主義的観点」に立って帝国主義的ないし全球的「仇敵」たるロシアに与して軍事介入に踏み切ったため、ドイツは、フランスを敗北させることができず、その結果ロシアを早期に屈服させることもできなくなってしまったわけです。
 こうして戦争が長期化した結果、1917年にロシアで2月革命と10月革命が起こり、ボルシェヴィキ政権が樹立され、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
ここに、ロシアは赤露へと変貌し、マルクスレーニン主義イデオロギーの下、英日等の自由民主主義勢力に対するロシアの脅威は、何層倍にも大きくなって立ち現われることになったのです。(太田)

(続く)