太田述正コラム#6124(2013.4.3)
<第一次世界大戦の起源(その6)>(2013.7.19公開)

 (4)セルビアと大公暗殺

 「クラークは、1903年のセルビアでの陰惨なクーデタの強く心を捕える物語から始める。
 超ナショナリストの将校達が、「許されざる暴力の乱行」を実行し、首相と陸相と共に国王と王妃を屠殺した。
 両陛下の死体の「腸は引き出され」、「見分けがつかなくなるほど切り刻まれ」、次いで、宮殿の庭に「殆んど裸で血糊がべっとりと付いた状態で」放り出された。」(D)

 「ロシアの支援の下、セルビアは大勝利者として立ち現われ、この地域の力の均衡は運命的に変更された。
 勝ち誇ったセルビアのナショナリスト達は、今度は、オーストリア・ハンガリーとの戦争を挑発し、ボスニアを奪取しようとした。
 彼らは、歴史的権利により、ボスニアを自分達のものであると見做していた。
 悲劇的にも、彼らは<それに>成功したのだ。」(B)

 「・・・クラークは、その将校階級が、欧州にとって身の毛がよだつことだが、彼らの不人気の両君主たるアレクサンドル国王<(注17)>とドラガ女王<(注18)>を、最も悪しきフランスの革命家達すら恥ずかしく思う可能性があるような、細切れにするという、礼儀正しさの水準を示したばかりであったところの、野蛮に近いギャング的国家でセルビアがあったことを示す。・・・

 (注17)Alexander I または Aleksandar Obrenović。1876〜1903年。1900年に、(彼に譲位していた)父親や母親や首相の反対を押し切って、かつて自分の母親の侍女であった、12歳年長のドラガと結婚したため、国民の不興を買った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_I_of_Serbia
 (注18)Draga Obrenović(旧姓 Mašin)。1864〜1903年。彼女の母親はアルコール依存症であり、父親は精神療養所で死去している。彼女の弟達が王位継承者になるという噂が流れたことが致命的となった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Draga_Ma%C5%A1in

 ・・・これに関与した将校達の一人は、ドラガの切り取られた乳房をトランクに入れて持ち歩いた。
 これは、各所のパーティで話のタネにそれを見せるためであったと思われる。・・・
 これらの粗暴な国王殺し達によって創設された秘密団体である、メロドラマのような名前が付けられたところの、黒い手(Black Hand)<(注19)>は、1914年6月28日にサラエボでフランツ・フェルディナンド大公と彼の妻を射殺した理想主義的な若きボスニア人達に武器とカネを与えたのだ。」(E)

 (注19)ドイツやイタリアの統一に倣い、セルビア王国とモンテネグロ王国によって統治されていないところの、南スラヴ人が多数を占める地域を全て統合することを目指して1901年にセルビア陸軍のメンバー達によって設立された秘密団体。
http://en.wikipedia.org/wiki/Black_Hand_(Serbia)
 ちなみに、「<モンテネグロは、>1516年にツェティニェ家による神政政治が確立した。これがモンテネグロが独自に持った最初の国家形態である。ツェティニェ家はその神政政治という性格から叔父から甥へと主教座が継承され、オスマン帝国のスルタンに朝貢を続けながら国家を存続させた。ツェティニェ家は1852年に世俗的な公へと転化し、モンテネグロ公国が成立した。これを契機として宗主国オスマンとの武力衝突に発展し、ロシア帝国の支援を仰ぐことになった。1878年、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約、ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。1905年に憲法が制定されて、モンテネグロ公はモンテネグロ王と規定しなおされ、国号はモンテネグロ王国になった。・・・言語的、文化的にはセルビア人との違いはほとんどな<く、>宗教も同じ正教会・・・<だが、>古代モンテネグロ人の祖先が、南スラヴ人とは別個のイリュリア人だった可能性も・・・ある。・・・2006年6月3日に<セルビア・モンテネグロを解消し、再び>独立・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B0%E3%83%AD

 「<クラークは、この>暗殺は、欧州の安定性を揺さぶり、欧州はついにそれから完全に回復することがなかった、ということを暗に示す。
 この両陛下の殺害を契機に、セルビアのナショナリスト達は、イタリア人達が、それに少し先だって、自分達自身で成し遂げることに成功したところの、領土拡大と独立の類に向けての探求を亢進させた。
 イタリアの場合もセルビアの場合も、ナショナリスト達は、それぞれの目標にはオーストリアが犠牲にならなければ到達できなかったが、バルカン人の場合、それに加えてオスマン人達も犠牲にならざるをえなかった。」(A)

 「オーストリア国内の様々な派閥は、1914年における大公の暗殺によって、正統性の主張という、決定的かつ明確な行動をとることが求められることになった。
 フランスにとって、この暗殺は、オーストリアの増大しつつあった脆弱さの印であり、ロシアが産業化するのを助け、かつまた英国に求婚することによって、ドイツとその同盟諸国との間での再度の一正面戦争を回避するフランスの戦略を梃入れする(家畜などを追い立てる)突き棒だった。
 (1870〜71年の普仏戦争<の記憶>は、フランス人達の頭の中に憑りついていた。)
 英国では、外相のサー・エドワード・グレイは、ドイツを政治的いじめっ子にして経済的競争相手である、と考えていたところ、議会はもちろんのこと、国王にも内閣にも明かさないまま、フランスに対して安全保障上のコミットメントを与えることで、ドイツに分をわきまえさせる(put in its place)ことに熱心だった。
 これらのコミットメント群は、ドイツが中立国たるベルギーを通ってフランスに進入した1914年8月に、英国にドイツとの戦争を大急ぎで始めることを強いることを助けた。」(A)

 「・・・欧州体制(European System)<(注20)>は、「危機管理に対する驚くべき能力」を示した。
 しかし、欧州は、1912〜14年のデタントの期間でさえ、「与国と潜在敵国双方の諸意図についてのあらゆる界隈での常続的不安定性」でもって特徴付けられていた。

 (注20)欧州協調(European Concert)のことか。「ナポレオン戦争以降の<欧州>でみられた、大国の間の合議と協調によって国際紛争の処理を行う<体制>。常設の機構を置くことなく、問題が生起するごとに特別な国際会議がもたれ、諸国間の相互調整による解決が図られることを特徴とする。<体制>を構成したのは、オーストリア、フランス、<英国>、ロシア、およびプロイセン(のちにドイツ)、さらにのちにはイタリアを加えた<欧州>の諸列強である。」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E5%8D%94%E8%AA%BF

 フランツ・フェルディナンド大公の暗殺から始まったところの、急に出現した諸危機を、この不安定性が満たした。
 オーストリア・ハンガリーの躊躇は、ロシアをして、この出来事を、暴君が「自分の国の市民達によって倒された」ものと言う(frame)ことを可能にした。
 英国とフランスは、この物語を否定する何物をも提供しなかった。
 そして、ドイツは、「オーストリアとセルビアの間の紛争の局地化を願った(count on)」。
 ところが、ロシアを動員をかけることによって、英国は躊躇することによって、そしてドイツは恐慌をきたすことによって、この危機をエスカレートさせた。
 <このようにして、>欧州は「悲劇」に向かって夢遊病的に歩いて行ったのだ。」(I)

(続く)