太田述正コラム#6120(2013.4.1)
<第一次世界大戦の起源(その4)>(2013.7.17公開)

 (3)全般

 「この戦争の諸起源に関する伝統的なアプローチは、この紛争の長期的ないし構造的諸理由(reasons)、主として諸大国の諸野心と諸恐怖及び対峙する諸同盟の諸危険、と、1914年7月から8月にかけての諸出来事という直接的ないし偶発的諸要因(causes)とを区別するというものだった。
 かくして、オーストリア・ハンガリーとセルビアの間の緊張とフランツ・フェルディナンド大公の暗殺によって引き起こされた危機は、バルカンの小さな火薬小樽を爆発させ、それが次いで大きな戦争を誘爆させたところの、火花に過ぎないものと見ることができた。
 クラークは、大国の意見の衝突という構造的枠組みとバルカン諸国という欧州の断層線を巡る諸紛議との間の均衡を、後者を中心的舞台に置くことで変更した。・・・
 1914年より前の欧州は、どんどん不安定になりつつあった、とクラークは主張する。
 諸大国の利害と競争が危うい均衡を保っていたところの「多極」システムであった1880年代末が、1907年までに二つの同盟に2分された二極欧州への遷移を彼は描写する。
 彼の議論は、1890年におけるドイツの、ロシアとの再保障条約(Reinsurance Treaty)<(注8)>更新を行わないという決定が、1894年の露仏同盟<(注9)>への道を開いたことから、この過程における枢要なる一歩であると見る点で外交史家達のコンセンサスの後をなぞる。

 (注8)「1887年6月18日、ドイツ帝国とロシア帝国の間に結ばれた秘密条約<。>・・・ドイツは・・・ロシアのバルカン進出を認める<とともに、>締約国の一方が第三国と戦争する場合、他方が好意的中立を守る<こととされた。>・・・この条約により、ドイツはロシアとフランスの双方に対する保障を得ることができた。これが普通「二重保障」条約と呼ばれるのは、独墺同盟による東方に対する保障を得、対立するロシア・オーストリアを共にドイツに結びつけたからである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E9%9C%B2%E5%86%8D%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84
 「独墺同盟・・・は、1879年10月7日に・・・調印された条約。・・・第1条 調印国の希望と真摯なる要求に反して、ロシアが両帝国の一つに攻撃をかけたならば、調印国は帝国の全力をあげて支援する義務を負う。従って共同のまた相互の同意によらなければ講和に応じない。第2条 もし調印国が別の一国に攻撃された場合、調印国はその同盟国への侵略者を支持しないことはもちろん、同志の国にたいして少なくとも好意的な中立を保つ。しかしながら、もし侵略国がロシアの支援を受けているとするならば、それが共同行動によるかまたは被侵略国の脅威となる軍事的手段を伴うものであれば、第1条の相互扶助の趣旨に沿って、調印国はその全力をあげて、共同行動に移る。この場合、共同した和平が達成されるまで調印国の戦争は継続される。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E5%A2%BA%E5%90%8C%E7%9B%9F
 (注9)「1891年より両国の交渉が公然化し、最終的には1894年に締結された。ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められた。・・・仮想敵を三国同盟に設定した同盟とはいえ、同盟の成立当初においては露仏同盟と三国同盟が必ずしも戦争に至るような対立関係にあったわけではない。日清戦争後の三国干渉(1895年)をロシア・フランス・ドイツが行ったように、各国ごとの国益によっては連携する余地も存在していた。むしろ、同盟成立当初において<露仏>両国にとって懸案だったのは<英国>であった。ロシアにとっては中央アジア・イランなどでの南下政策の妨げであり、フランスにとってはいわゆる「アフリカ横断政策」の妨げとなっていたのが3C政策をとる<英国>だったからである。しかし、<ウ>ィルヘルム2世は世界政策(新航路政策)を掲げ、艦隊法の制定以降<英国>との建艦競争に突入した上、中東進出(いわゆる「3B政策」)を企図してロシアとの関係も悪化させた。その結果、露仏同盟は対独同盟としての性格を強め、のちの英仏協商、英露協商と結びついて対独包囲網の一角を担うことになった。ロシアはこの同盟を前提としてフランスからの投資を受けることになった。1891年より建設に着手するシベリア鉄道も、この時のフランス資本によるところが大きい。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E4%BB%8F%E5%90%8C%E7%9B%9F

 1914年には、英国がゆるやかにコミットしたところの、露仏同盟<(注10)>が、信頼のおけないパートナーたるイタリアが希薄にくっついたところの、独墺同盟<(注11)>と対峙していた。

 (注10)「<ウィルヘルム2世が>独露再保障条約の更新を拒否<したこと>によって外交的に孤立したロシアは同じく孤立していたフランスに接近し、翌年の1891年から1894年にかけて交渉を行い、1891年に政治協定を、次いで1894年に軍事協定を成立させた(露仏同盟)。その動きを見たドイツは行動に移り、いわゆる3B政策(バグダード・ビザンティウム・ベルリン)を推進して西アジアへの進出を図り、<英国>の3C政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)との対立を深めていった。こうなると最強国<英国>の力をもってしても西アジアにおけるドイツ・東アジアにおけるロシアと言う二つの敵を独力で抑える事は難しくなり、長い間保持してきた「栄光ある孤立」を放棄し、1902年に日本と日英同盟を、1904年に長年の宿敵・フランスと英仏協商を結んで、それぞれロシアとドイツの伸張を食い止めようとした。更に日露戦争におけるロシアの敗戦により、東アジアにおけるロシアの伸張が抑えられた今ならばロシアとの利害の調整が可能になると考え、1907年に英露協商を結んだ。この露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作れる三国の協調関係を指して三国協商と呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%95%86
 (注11)「ドイツ帝国では、宰相・ビスマルクの下、フランスを孤立化させて対独復讐を断念させる目的・・・の一環として、1882年、オーストリア、イタリアと三国同盟を締結する。その後、ドイツの急速な経済発展によりロシア、イギリスとの関係が悪化してビスマルク外交は破綻したが、三国同盟は維持され続け、1907年に成立したイギリス、フランス、ロシアの三国協商に対抗。1914年に始まった第一次世界大戦では、ドイツ、オーストリアが同盟国を形成して協商3国などによる連合国と戦った。しかし、「未回収のイタリア」と呼ばれる南ティロル、トリエステなどを巡りオーストリアとの領土問題を抱えていたイタリアは、1902年には、ドイツがフランスを攻撃する際にはイタリアは参加しないことを約束した仏伊協商をフランスと結ぶなど、三国協商側に接近しつつあった。 そのイタリアが1915年4月、<英国>との間に未回収のイタリアをイタリアに割譲することを約束したロンドン秘密条約を秘密裏に結び、5月には連合国側に付いてオーストリアに宣戦したことにより、三国同盟は崩壊した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F_(1882%E5%B9%B4)

 この対立する2同盟は、それぞれに付属していた軍事協約が熱病的次元を付加していたとはいえ、両者間で戦争が始まるべく運命づけていたわけではなかった。
 現に1914年の夏より前の累次の危機は解決されてきた。
 サラエボに地震性の含意を与え、欧州紛争をもたらしたものは、クラークの見るところ、「欧州大陸の諸同盟の緩やかな網の目がバルカン半島において起こりつつあった諸紛争と連動(interlock)した」図式だったのだ。
 東方問題、すなわち、長きにわたったオスマン帝国の衰亡とそのバルカンの諸領地に対する掌握維持の失敗、が、19世紀初頭から、力の真空を生み出しており、それが帝政ロシアに諸機会を、そしてオーストリア帝国には諸危険を提供しており、他方、生まれつつあったバルカンの諸国家は分裂しており拡張主義的であり不安定だった。
 1903年6月のアレクサンドル(Alexandar)国王とドラガ(Draga)王妃の暴虐的暗殺によってセルビアの親墺的なオブレノヴィッチ王朝<(注12)>が終わると、バルカンにおける力の均衡は変化した。

 (注12)「セルビア王国・・・は、1882年から1918年にかけてバルカン半島に存在した国家。前身は1817年成立のセルビア公国。1878年まではオスマン帝国の宗主権下にあり、1918年成立のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に発展する形で消滅した。首都はベオグラード。・・・1903年の国王殺害のクーデターによって王位がオブレノヴィッチ家からカラジョルジェヴィッチ家に移ると、オーストリアを重視する政策を改め、周辺国やロシアとの友好を重視する政策に転換した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD_(%E8%BF%91%E4%BB%A3)

 セルビアは、失敗国家であった、とクラークは描写する。
 それは、要するに、貴族と中産階級が存在しない農民経済<国家>であり、政府と議会の諸制度を支える社会的ないし経済的構造を欠いていた。
 アレクサンドル国王は無能で独裁的でかんばしくない人物だったが、彼を承継した諸体制は、新しい君主のピョートル(Petar)、陸軍、民兵、秘密諸団体、及び政治指導者達が、途方もない汎セルビア・ナショナリストの諸目的に対して疑問を呈そうと誰もしないまま、コントロール権を巡って争ったために、積極的ないし責任ある方向性を欠いていた。 
 セルビア人達は自分達の大セルビアをという目的への支援をロシアに期待したが、この目的は、オーストリア・ハンガリーの犠牲の下でしか実現できなかった。
 <こうして>サラエボ<での暗殺>への道は開かれ、二つのバルカン戦争<(注13)>及びボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア・ハンガリーへの併合が<この大戦への>二つの里程塚を提供することとなった。」(C)

 (注13)第一次バルカン戦争(1912年10月〜13年5月):「1908年以降の青年トルコ人革命以来オスマン帝国は、「汎トルコ主義」に基づき「トルコ化」を推進した。この政策はバルカン半島の諸民族から激しい反発を生む一方、すでに独立を達成しているギリシャ、セルビア、モンテネグロ、ブルガリアの各国はこの地域での影響力拡大を虎視眈々と狙っていた。また「汎スラヴ主義」の大義のもと「南下政策」を展開するロシア帝国もこれら各国への支援に積極的であった。1911年にアルバニアの自治要求がオスマン帝国で始まると、それまでマケドニア問題で対立していたセルビアとブルガリアがロシアの仲介で同盟を結ぶ。これを受けてブルガリアはギリシャと同盟し、セルビアもモンテネグロと同盟を結んだ。この結果「バルカン同盟」がロシアの後ろ盾で結成され、1912年の10月には各国がオスマン帝国に相次いで宣戦を布告した。・・・1913年の4月の・・・ロンドン条約<により>、オスマン帝国はエーゲ海のエノスから黒海のミディアを結ぶ線以西のバルカン半島とクレタ島の領有を放棄した。」
     第二次バルカン戦争(1913年6月〜8月):「バルカン同盟諸国<の間>で獲得した領土の国境をめぐり新たな対立が生まれ・・・<再度>戦争がはじまった。1913年6月29日にブルガリアはギリシャとセルビアに侵攻・・・た。しかし、すでに対ブルガリアでギリシャとセルビアが秘密同盟を結んでおり、すぐに反撃する。それに乗じてモンテネグロ、ルーマニア、オスマン帝国もブルガリアに宣戦布告した。この結果、ブルガリアがバルカン諸国全てを敵にまわし孤立無援とな<り、その結果、>・・・8月にはブカレスト講和会議が開催された。ブカレスト条約によってブルガリアは・・・最大の犠牲を払<うこととなり、>・・・大きな不満を残した。・・・<こうして共に大きな不満を抱えたブルガリアとオスマン帝国>は接近を見せ<ることとなり>、これが続く第一次世界大戦の一つの要因とな<った。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89

(続く)