太田述正コラム#6116(2013.3.30)
<第一次世界大戦の起源(その2)>(2013.7.15公開)

 「<もう少し、詳しく振り返ってみよう。>
 ドイツが1918年に崩壊した際、ほつれた顎鬚の眼鏡をかけたユダヤ人革命家たるクルト・アイスナー(Kurt Eisner)<(注4)>・・どこにでもいたコーヒー・ハウスの無政府主義的社会主義者(anarcho-socialist)であって、ミュンヘンの赤色革命の似つかわしくない指導者に結果としてなったしまった人物・・は、1914年の出来事群においてドイツが果たした役割の真実の少なくとも一部を衝動的に口にした。

 (注4)1867〜1919年。「ベルリンのフンボルト大学で・・・学<ぶ。>・・・敗戦とドイツ革命の混乱の中でバイエルン王家打倒を叫ぶ革命を組織した。11月7日にミュンヘンで大集会を開き、翌11月8日に労働者・兵士レーテ(評議会)の会合で王制廃止とバイエルンの共和国化を決定。暫定首相に選出され、社会民主党および独立社会民主党からなる臨時内閣を組閣した。国王ルートヴィヒ3世はオーストリアに亡命し・・・た。アイスナーはおよそ100日間首相兼外相の座にあ<り、>・・・一日8時間労働や婦人参政権などを実現した・・・が、・・・争点となったのは議会制民主主義を採るか、より急進的で直接民主制に近いレーテ共和国制とするかだった。彼は中間派の立場であり、レーテを議会の調整・助言機関として認めるが、行政権や立法権は与えるべきではないと考えており、<それも>あくまで「国民に民主主義を定着させる移行措置」と捉えていた。・・・<彼は、>右翼から革命指導者・・・共産主義者から<は>日和見主義者・・・とみられていた・・・。・・・1919年1月12日に行われた選挙で、アイスナー<率いる>独立社会民主党はわずか2.5%という惨敗に終わり、アイスナーは辞任を余儀なくされた。2月21日、議会での辞任表明に向かう途上のアイスナーは、・・・右翼将校の襲撃を受け、頭と背中に銃弾2発を受け即死した。・・・直後に革命派の青年が復讐と称して右派の議員や社会民主党代表を襲撃し、議会はパニックに陥り政局は大混乱に陥った。穏健派のアイスナーの死によりミュンヘン革命は先鋭化し、極左勢力によるレーテ共和国樹立、そしてその反動である右派義勇軍による復讐へと発展していくことになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%BC
 戦後直後のバイエルンの政治状況は、多かれ少なかれドイツ全体の縮図だったが、大戦中のロシアの政治状況と生き写しだ。当時のドイツにおける自由民主主義定着度が、同じ時期の日本に比べてもいかに低かったかが分かろうというものだ。(太田)

 権力の座へと眼をしばたたせながら駆り立てられたところの、理想主義的なアイスナーは、一人の怒れるナショナリストによって撃ち殺されるまでの短い間に、彼がバイエルン政府書庫内を照覧できる立場になった時に見つけた秘密文書群の公刊の手筈を整えたが、この文書群は、フランスの同盟国のロシアに対してその侵略的戦争機構の全力を振り向ける前にフランスに対して先制攻撃をかけるために1914年7月のオーストリア・セルビア危機を用いることに極めて用意があった、というか喜んでこの危機を用いたことを証明した。
 (ウォータールー以来の1世紀間、そうであったように、英国が欧州大陸の紛争の埒外に立つであろうことを懸命に祈りつつ・・。)
 アイスナーによるドイツの「戦争の罪(war guilt)」の確認は、逆上したドイツの右派からの死刑宣告を彼にもたらし、ナチスによって煽り立てられたところの、爾後のベルサイユ条約の戦争の罪条項を敵視する事故憐憫運動の中で長く取り上げられることとなった。
 この否定運動は、単にドイツの中だけでなく、より広い世界、とりわけ英国、の中で、大いなる成功を収め、第一次世界大戦の起源に関する、支配的かつ受容された物語は、「我々は全員有罪(We were all guilty)」テーゼ・・その観念は、この紛争は、軍拡競争とその不可避たる爆発をもたらしたところの、二つの欧州の権力ブロックの間の競争の結果であるとするもの・・と呼べるようなものとなった。
 それは、要するに、クリストファー・クラークがかくも流暢に再主張したところの、欧州が多かれ少なかれ事故によって盲目的に戦争へとよろよろしながら歩言って行ったとするテーゼなのだ。
 しかしながら、アイスナーとクラークとの間を隔てる長い期間において、このテーゼは、<一旦、>完璧なまでに破壊された。
 それは、今度も一人のドイツ人によってだった。
 1961年に、歴史家のフリッツ・フィッシャーは、彼の影響力の強い研究であるところの、(直訳すれば)『ドイツによる世界大国になるための鷲掴み(Germany’s Grab for World Power←Deutschland’s Griff Nach der Weltmacht)」・・ただし、英訳圧縮版でははるかに穏当な題である『第一次世界大戦におけるドイツの狙い(Germany’s Aims in the First World War)』がつけられた・・を公刊した。
 フィッシャーは、ドイツが、サラエボにおける拳銃の何発かによって引き起こされた危機を戦争を起こすために意図的に用いたことを証明するために、初めて、西独と東独双方の諸書庫を開いた。
 無責任に、まさに恐ろしくも、ドイツの統治エリート達は、その精神が不安定で大仰な皇帝によって促され、数週間にして勝利を収めることを期待しつつ、何百万人もの生命を賭けて、一つの紛争を工作する、という賭博をやったのだ。
 ところが、我々の知るとおり、物事はそんな風には進展しなかった。
 フィッシャーは、ドイツの超保守的な歴史学の体制派から、ワイマール・ドイツの有責性をかくも終局的に論証し、かつ、ヒットラーの戦争への道は、一人の狂人の逸脱どころか、伝統的なドイツの外交政策のより十全なる諸手段をもってする単なる継続であることを示したことで、「マルキスト」或いは「裏切り者」とさえ、激しく攻撃された。
 フィッシャーの誠実性(integrity)に対する諸攻撃にもかかわらず、彼のテーゼの証拠は極めて圧倒的なものがあったので、このテーゼは、次第にドイツ外とドイツ内の当時のまともな歴史家達ほぼ全員の間で受容されて行った。
 すなわち、フィッシャーの追随者達の一人のイマニュエル・ガイス(Imanuel Geiss)<(注5)>によれば、「1914〜60年の間の<ドイツは>無辜であるとのかつてのテーゼは死んだ」のであり、「我々は皆戦争にずるずる滑って行った(we-all-slithered-into-war)」という立場へと避難することはついに不可能になったのだ。第一次世界大戦の勃発にドイツ帝国が主な役割を果たしたこと(predominant part)とドイツの戦争目的の攻勢的性格(offensive character)とは、もはや、論議の埒外となったのであり、否定するわけには行かなくなったのだ。」(E)

 (注5)1931〜2012年。ドイツの歴史家。母親が髄膜炎だったため、5人兄弟の一人として失業者たる父親の手で育てられていたが、1940年にこの父親が死亡し、翌41年には母親もナチスの安楽死制度に基づき安楽死させられ、爾後、孤児院で生活する。大学入学資格試験合格後、フランス語と英語の翻訳者として勤務しつつ、研究活動を1955年から開始。
http://en.wikipedia.org/wiki/Imanuel_Geiss

(続く)