太田述正コラム#6110(2013.3.27)
<太平洋戦争における米兵のPTSD(その4)>(2013.7.12公開)

 (5)太平洋戦争の大義や戦略に対する批判

 「<私の父が>ダグラス・マッカーサー将軍の部下であったならば、彼は<戦後>正常な一市民たりえたかもしれない。
 この将軍はもったいぶったアホだったかもしれないが、日本が持っていた島々を迂回するという彼の作戦は、何千もの米兵の死と、それよりもはるかに多い一般住民の殺戮を回避することができた。・・・
 チェスター・ニミッツ(Chester Nimitz)<(注2)>の「コルク栓抜きとガスバーナー(Corkscrew and Blowtorch)」流の戦術に露骨に動員され、第二次世界大戦の間、太平洋全域を片足飛びさせられた、第22海兵師団第3大隊L中隊の海兵隊員達、いや、島で戦った全海兵隊員達、にとって悲劇だった。

 (注2)1885〜1966年。ドイツ系米国人(3世)。米海兵卒。米海軍最後の元帥。「第二次世界大戦中の<米>太平洋艦隊司令長官および連合国軍の・・・平穏な南東太平洋方面と、ダグラス・マッカーサー大将率いる南西太平洋方面<と並ぶ>・・・中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官として日本海軍と対峙した。・・・
 ミッドウェー海戦以降の太平洋方面における連合国軍の方針についてマッカーサー大将と、お互いが全作戦が自己の指揮下に置かれるべきだと主張しあい対立した。ガダルカナル島を巡る作戦の主導権は、マッカーサーの作戦が時間を食いすぎるとの判断からニミッツが握ったが、以降マーシャル諸島 - マリアナ諸島 - 硫黄島 - 沖縄 - 上海と中部太平洋を真西に直進しつつ日本本土と南方資源帯を分断して日本の消耗を誘うべしという海軍の主張と、ニューギニア - ミンダナオ - フィリピン - 台湾を経て日本本土を目指すべしというマッカーサーの主張は平行線を辿った。
 統合参謀本部は海軍寄りの姿勢を示したが、マッカーサーの名声と彼の「アイシャルリターン」は国民世論を動かしており、ルーズベルト大統領は双方の主張するルートを平行して行うよう妥協案を示した。この間互いの援軍を断り合うこともしばしばで、両者が合流したレイテ沖海戦の折、ニミッツ指揮下でハルゼー大将率いる第3艦隊と、マッカーサー指揮下でキンケイド中将率いる第7艦隊で連携が取れないという事態となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%84
 なお、このウィキペディア中の「ニミッツと東郷平八郎」の項は必読。

 硫黄島と沖縄を迂回しておれば、何万人もの米国人の命が救われたであろうに・・。・・・
 <書評子たる私に言わせれば、>ニミッツにとっては、海兵隊員の数など、戦闘部隊の朝の報告に載るプラモデルの兵隊の数でしかなかったのだ。
 マリガンは、死ぬまでの間、「効果的<存在>」として任務に就いている、というだけの存在にほかならなかったのだ。
 爆発の瓦礫に埋もれ、死んだものとみなされた後、彼の遺体は書類の上でL中隊から配転され、第3大隊の兵站網へと配置された。
 2番目と3番目の容器にそれぞれ入っていた手榴弾の箱とK糧食の箱と並んで同じ棚に・・。
 マリガンの遺体が行方不明になったことは、<太平洋戦域での>偉大なる勝利に感興を添えただけのことだった。」(E)

 「亡くなった海兵隊員の悲しみにくれた妹は、<著者がインタビューした海兵隊員たる帰還兵の一人に対して、>「彼の死は、いや彼以外の男達の死は、全く意味がなかった(nothing has been accomplished)。<彼らの死によってしても、>世界は生きるためのより良い場所になることはなかった。その反対に、それはあらゆる外見において、日々より腐った場所になりつつある」と書いて寄越したという。」(C)

 「死んだ日本兵の金歯を盗んでいたジェームズ・ローリッジ(James Laughridge)は、<誰か著者のような>人が本当のところ戦争はどうだったのかを伝えたいと思ったことはうれしいと伝えた。
 「[帰還兵達は、]私が、良い戦争について書いて欲しくなかった。
 <本国では>熱狂した(rah-rah)戦争だったけれど、<実態は>そんなものでは決してなかったからだ」とマハリッジは請け合う。
 それを良い戦争と呼んだ者は皆無だった。
 英雄と言う言葉を使った者も皆無だった。・・・
 多くの帰還兵達が共有していた一つの見解は反戦的なスタンスだった。
 「彼らの多くは、どうして我々はイラクとアフガニスタンにいるのかと問いかけたものだ。
 私はこの問いかけを彼らに促したことは一度もない」とマハリッジは物語る。
 「彼らは、一人一人が個人的にこの問いを提起するに至ったのだ。
 それが彼らの声だったのだ」と。」(H)

 「「1940年代の戦争は、突き詰めれば、他の人々を占領し殺すという悪いことをしていた一つの帝国主義大国が、他の人々を占領し殺すと言う悪いことをしていたもう一つの帝国主義大国を攻撃した、ということなのだ」と彼は記す。
 マハリッジ氏にとっては、東条首相によって仕組まれたいかなる残虐行為も、米国が1899年にルソン島で犯した罪々には匹敵しないのだ。」(A)

 「<書評子たる私に言わせれば、>マハリッジは、不必要に彼の父親と同僚たる海兵隊員達をぞっとするようなひどい形で追い詰めたところの、太平洋戦争の全般戦略に対する批判へと<不必要に>迷い込んで行ったのだ。」(B)

(続く)