太田述正コラム#6108(2013.3.26)
<太平洋戦争における米兵のPTSD(その3)>(2013.7.11公開)

 (4)蛮行

 「著者は、<その光景を>目の当たりに見るような嫌悪感でもって歩兵戦闘の暴虐性を描写することができた。
 死者の冒涜、金歯や耳を含めた記念品の収集、女性や子供を含めた負傷者の殺害、そして、ベトナム戦争の時に歩兵部隊が兵站が不十分であった場合に起こったのと同様の、捕虜をとるな、という明示または黙示の命令。」(D)

 「彼が暴露したものは、この戦争の本国戦線における応援団長達の党派的方針や、その後の「最も偉大な世代」に関する商業化され誇張された繰り返し(flow)とは、似ても似つかないものだった。・・・
 彼は、彼がインタビューしたところの、年取った帰還兵達が回顧する太平洋戦争は、どちらの側も相手側の捕虜を殺戮するという残虐行為で満ち満ちていることも学んだ。
 一人の帰還兵は、グアムでは一人も日本人捕虜を取らなかった、と彼に伝えた。
 (これは実際には事実ではない。グアムでは、<日本の>守備兵22,000人のうち、485人の捕虜が取られた。比較するが、1943年の北アフリカにおけるチュニジア戦役が終わった時点で230,000人を超えるドイツとイタリアの捕虜が取られた。)
 他の太平洋の島々でも、生きたまま捕虜になった<日本兵>は多くない
 沖縄戦は・・沖縄には、多くの沖縄人の反対をものともせずに、いまだに25,000人の米軍部隊がとどまっている・・1945年のエイプリルフールの日に始まった。
 フレイジャー・ハント(Frazier Hunt)の『ダグラス・マッカーサーの初めて語られる物語(The Untold Story of Douglas MacArthur)』に依拠して、マハリッジは、この戦闘は、推定150,000人の一般住民、110,000人の日本兵、そして12,520人の米兵の死者、に加えて36,707人の米兵の負傷者を出した。・・・
 もう一人の元米海兵隊員のジョー・ランシオッティ(Joe Lanciotti)は、2005年に『臆病なマリネイン(The Timid Marinein)』を自費出版し、戦争神経症(combat fatigue)等に罹った、或いは精神医学上の理由で除隊になった、はたまた、単に敵前逃亡した、兵士達(GIs)について書いた。
 <ちなみに、>第二次世界大戦を通じ、エディー・スロヴィク(Eddie Slovik)という米兵一人しか、敵前逃亡で処刑された者はいない。
 「私を含めた、何千もの戦争神経症に罹った帰還兵は、かの震え上がったエディー・スロヴィクに同情を禁じ得ない。
 私自身、ひどく震え上がった臆病な海兵隊員だった」と。
 <マハリッジがインタビューした>うちの何人かは、沖縄の少女を強姦したとされつつも処罰されることがなかった一人の海兵隊員のことに言及した。
 マハリッジは、最終的にこのいわゆる強姦者を見つけ、まことに気が進まないまま、不満足なインタビューを行ったが、この老人たる海兵隊員は全てを否定した。」(C)

 「マハリッジは離れて立ち、赤ん坊達が撃たれる光景にいまだに憑りつかれている海兵隊員、日本兵捕虜の首に銃剣を突き立てたけれど当時も今も何の後悔もしていない奴、死んだ敵兵達の口から金歯を引っ剥がした海兵隊員、発炎弾を運んでいて直撃弾を食らった男についての思い出、といった物語群が慄然としたものを漂わせるにまかせる。」(B)

 「第二次世界大戦当時には、人は<爆風による>脳震盪の治療をまともには受けさせてもらえなかった。
 同じことが現在の兵士達についてもあてはまる。
 我々の軍部は、血が流れる負傷だけを一般に認める。
 私の父は1944年のグアム戦で重傷を負った。
 彼は、その何十年も後に、日本軍の砲弾の破片が背骨近くに入ったまま死んだ。
 これに対し、彼は名誉戦傷章(Purple Heart)を授与され、当初、月約20ドルの支払いを受けた。
 しかし、彼は、それよりもはるかに彼を衰弱させたもう一つの傷に対しては何ももらえなかった。・・・
 <いわんや、PTSDについてをや。(太田)>
 <私が話を聞いた元海兵隊員みんなに私は好感を持ったが、>地下室で鉄の工具を研磨しながら、私の父が何度も語ったことのある一人の男だけは私は好きになれなかった。
 そいつは、ここでは「X」と呼ぶことにするが、沖縄で一人の女性を強姦した、と私の父は言った。
 Xは、次いで、憲兵が彼を捕まえられないように、この島から出るため、自分で自分の足を撃った。
 数か月後、父の中隊の別の人が、<その人をインタビューしていた>私に対し、Xは、その強姦からそれほど経っていない頃に二人の赤ちゃんも撃った、と伝えた。
 <その人は、>自分は彼が赤ちゃん達を殺すのを止めさせようとしたけれど、Xは彼を殺すぞと脅かした、と私に伝えた。
 本稿は2010年6月央に書いたのだが、その一週間前、私は、田舎の森の奥深くの小屋に住んでいるXをインタビューした。
 彼は銃を手元に置いていた。
 強姦から約65年の後、彼はいまだにそのことで殴られる(busted)ことを恐れていたのだ。
 それは、私のジャーナリストとしての32年間に行った最も緊迫した(intense)インタビューの一つだった。」(G)

 「「いわゆる「良い戦争」は私の父親及び彼の中隊にとってはそんなに良いものではなかった」とマハリッジは言った。
 「彼らは、彼らが経験させられた<おぞましい>ことを経験する必要はなかった」と。・・・
 マハリッジは、<Xの家を>辞する直前に、自分は沖縄に行って強姦の犠牲者を見つけようと試みて、彼女が強姦犯のことを覚えているかどうか確かめたい、と彼に伝えた。
 「3時間近い時間が経過していたが、その時初めて、私は<X>の目に恐怖が宿ったのを見て取った」とマハリッジは記す。」(F)

 「<どうして、兵士達が記念品群を持ち帰ったについての、書評子たる>私の説明はこうだ。
 記念品群は、決して変化することがないので、戦争のトラウマによって影響を受けた諸記憶のあやふやさと対処する際に役に立つのかもしれない。
 <こう私が言うのを聞いた>マハリッジは、思慮深く、「恐らく、戦利品群は、殆んど<自分達の>トラウマの偶像群(icons)のようなものとなったのだろう」と言った。」(H)

(続く)