太田述正コラム#6074(2013.3.9)
<愛について(その6)>(2013.6.24公開)

 (4)メイ批判

 「メイは、(そんなものは愛ではないところの、)他人をコントロールするための所有欲的(possessive)欲望と、服従(submission)に立脚したところの、愛の真の所有(possession)との間に明確な線を引く。
 愛も音楽と同様、服従し自らを与えることこそ、真正に所有する唯一の方法なのだ、と。
 しかし、この二つが本当にそんなに違うものであるかどうかは疑問だ。」(D)

→仮にメイがそんなことを書いているとすれば、哲学者らしからぬ、厳密な概念を用いない言葉遊びだと思いますし、評論子の批判も雑駁過ぎます。(太田)

 「<この本>には若干の欠陥がある。
 第一に、メイが、我々は、愛する者を<自分にとって>良いもの(good)であると見るから愛するわけではないと信じていることは、私には変に思える。
 メイ自身の説明に即しても、例えば、ポール(Paul)がこの世界を若干なりとも家のようにしてくれるからポールを愛するとすれば、自分は、<自分にとって>良いものを持ち合わせているからこそ彼を愛するわけだからだ。
 第二に、彼の新約聖書中の愛についての論述(treatment)は、極めてズレている(off track)。
 彼は、キリストは愛についてはっきりとは殆んど語っていないし、とりたてて愛のことなど気にしていないように見える、と主張している。
 これについては、コメントをする必要はないと信じる。
 第三に、この本は、歴史的目的とその理論的目的との間で股裂になっているように見える。
 歴史に係る諸章のうちのほんのわずかしか、彼の理論的諸点を理解するために必要ではないし、また、歴史書としては、この本は書かれていないことが多すぎる。
 ダンテやキルケゴールなどという恐ろしく重要な人物達を無視する一方で、奇妙なことに、一つの章をスピノザにあてているのだから・・。
 同じ表紙をつけた二つの異なった本が居心地悪く同居しているように時々見えた。」(J)

→どうでもいい、些末な評論ですね。
 ことほどさように、その大部分がイギリス人であると目される評論子達は、この本でのメイの主張についての理解が全員一致しているようには思えないけれど、みんな、メイの主張は大筋で正しそうだと受け止めているらしいことが分かります。(太田)

3 コメント

 (1)欧米における愛に係る思索の問題点

  ア 序

 何度も申し上げて恐縮ですが、メイの議論は、それが大筋でそれほど間違ってはいない、という印象を我々・・少なくとも私・・・も共有するものの、何とも分かりにくい感じが否めません。
 (どうやら、評論子達にとってもそうらしい、とも申し上げてきました。)
 それは、既に示唆してきているように、「愛」概念の二重性がしからしめているのである、と私は思っています。
 もう少し敷衍しますと、起点としての性愛から終点としての神に係る愛へ、というベクトルによって規定された形で「愛」に係る思索を行うからこそ、また、このこととコインの裏腹の関係にありますが、「愛」よりも広義の、或いは「愛」と重なり合うけれど微妙にずれているところの、適切な言葉が欧米には基本的に存在しないからこそ、メイの議論は本来的に分かりにくいのではないか、と私は思っているのです。
 以下、このことを、できるだけ噛み砕いてご説明することとし、その上で、私の見解を申し述べます。

  イ 起点としての「愛」:(性交を目的とするところの)性愛

 性愛は人間の精神衛生上良いことである一方、性愛の相手が多過ぎても精神衛生上よろしくない、ということは、文明、文化にかかわらず、人間が抱いている常識でしょう。
 性愛が精神衛生上良いことである、という指摘が、カトリックの僧侶達の間の少年愛や同性愛の横行とのからみで、下掲のように時々なされているのはご承知のとおりです。

 「<カトリック>教会が僧侶に求める禁欲の誓いは、しばしば残酷であり<精神を>蝕む。それは、人間の本性に反する。それは求め過ぎというものだ。」
http://www.nytimes.com/2013/02/26/opinion/bruni-the-wages-of-celibacy.html?ref=opinion&_r=0
(2月26日アクセス)

 禁欲には、厳密には自慰の禁止も含まれますが、それはさておき、禁欲を破るには、基本的に異性(または同性)たる相手方が必要です。
 何と、性愛の相手方ができる可能性があるだけで、つまり、現実にそれが成就するに至っていなくても、精神衛生上大きなプラスになる、というのです。
 (最後の一文には後で申し上げるように首肯できないのですが、)下掲のような実験結果があります。

 「学生にダミーで用意した心理テストを実施したうえで、『恋人ができる見込みなし』と診断された学生と、『友人ができる見込みなし』と診断された学生と で、心理面への影響にどのような違いがあるのかを調査し<たところ>、恋人ができないと診断されたグループは、後者のグループと比べてはるかに自尊心 のダメージが大きいことがわかった・・・。このデータは、人の自尊心を支えるのは友人よりも恋人であることの証明<であるという見方がなされている。>」・・・」
http://news.infoseek.co.jp/article/r25fushigi_wxr_detail_id2013021300028260r25vosnr25
(2月14日アクセス)

 もう一つ興味深いのは、下掲からも分かるように、性愛の相手方が多過ぎても精神衛生上良くないのであって、どうやら、少数の相手方が、しかも時期的に重なり合うことがなく、長期にわたって存在することが望ましいらしい、という点です。

 「18歳から20歳の間に2〜3人を超える性愛の相手方を持った女性は、0〜1人しか性愛の相手方を持たなかった女性に比べて、21歳になった時点で、アルコールやマリファナを主とするヤク問題を引き起こす可能性が10倍を超える。
 21歳から25歳までの間に2〜3人を超える相手方を持つと中毒になるリスクは7倍になる。
 そして、26歳から31歳の間に2〜3人を超える相手方を持った女性は、この間相手方がいなかった女性に比べて、このリスクは18倍になる。
 男性に関しても、リスクは増えるけれど、これほどは増えない。
 18歳から20歳の間に2人以上性愛の相手方がいると、深刻な物質使用中毒にかかるリスクは3倍近くになるし、2〜3人を超える相手方を持った場合にはこのリスクは4倍になる。・・・
 20歳から24歳の女性の24%が2人以上の相手方を前年に(in the past year)持った<と答えた。>
 男性の場合は29%だ。 
 しかし、女性の場合は、特に、過小に報告する可能性がある。・・・
 たくさんの短期間の関係を持つこと自体が心理的に傷を与えるかもしれないし、「複数の失敗した関係が新しい関係を始めることに対する不安を生み出す、ということなのかもしれない。
 物質でもって自己「薬物治療」を行うことは、この対人不安に対処する一つの方法なのかもしれない。」
 女性は、文化的に単婚を好むことを期待されているところ、そのようにふるまわなかった場合に、男性よりも高いリスクに晒されるのかもしれない。」
http://healthland.time.com/2013/02/25/more-sex-partners-linked-to-higher-risk-of-drug-addiction-alcoholism/print/
(2月26日アクセス)

(続く)