太田述正コラム#6070(2013.3.7)
<愛について(その4)>(2013.6.22公開)

 (3)メイが提唱する「愛」の概念

 「<この本>にはただの一つもオリジナルな考えは含まれていないように見えるかもしれないが、メイは、一見殆んど不可能なことを達成し、真にオリジナルな愛の哲学を生み出したのだ。・・・
 メイは、愛の観念は時代と共に変化して来たと主張する。・・・
 第一には、愛は神と同定(identify)される至高の価値とされた。
 第二には、聖なる恩寵(gift)により、人間は最高度の愛を達成する力を与えられた。
 次いで、人と自然が神的なもの(deity)に匹敵する価値のある愛の諸対象となることによって、愛は、より地上へと引き下ろされた。
 そして、最終的に、愛は、愛する者がその最も十全にして最も真正なる本性(nature)を実現するための手段となった。・・・
 愛の永続性(immortality)は、メイが同定する愛の歴史における唯一の誤った付着物ではない。
 我々は、その他の二つの蔓延する幻想・・愛が無償で無私であるとする幻想・・によって苦しめられている。
 <メイは、>これらの神話の力は、愛が「存在論的根付(ontological rootedness)」の感情の表現であるという事実によって説明できるかもしれないと言う。
 メイがこの重たい文句でもって言おうとしているのは、我々は自分達を根付かせるものを愛する、ということなのだ。
 つまり、我々は、自分自身と世界に関して寛ぐ(at home)気持ちにさせるものを愛する、というのだ。」(C)

 「2000年近くの間、一人の新しい神も<現われ>なかった!」とニーチェは1888年に記した。
 しかし、彼は間違っていた、と哲学者のサイモン・メイは主張する。
 当時出現しつつあった新しい神がいたのだ。
 その新しい神は人間の愛だった。・・・
 メイが示唆しているのは、全くもって私心がない(disinterested)ことも無償であることもないところの、人間の愛には、実のところ、大いに私心があったのだ(interested)。
 我々は自分達の中に存する天賦の慈悲のせいではなく、また、愛する対象の中に美や善を認識するせいでもなく、自分達が結ばれようとする対象が「存在論的根付」を提供してくれるからこそ愛するのだ。
 換言すれば、愛する対象は、自分達の実存(existence)と価値を確認させる(affirm)ところの、家(home)を提供してくれるのだ。
 メイにとっては、愛とは、絶対でも永遠(eternal)でも救済的(salvific)でもないのであって、その実存を接地させて(ground)くれて、この世界を家と呼ぶことができる場所に変えてくれるところの、偶然の出来事(contingent)たる存在を掴みとることなのだ。」(J)

 「我々が人々や芸術作品や自然の美を愛するのは、それらがこの世界の中で我々をして「安全」で「寛げる」気持ちにさせてくれるからだ。・・・
 愛は、人間が持ち得る、最も深い、最も神秘的な経験であって、だからこそ、それはキリスト教において、神の<属性の>一つの延長(extension)なのだ。
 大部分の人々の言葉はそれを<うまく>描写することができていない。
 これが、オヴィディウスの物語群、シェークスピアのソネット群、そしてジェーン・オースティンの小説群という稀なる諸例外をしてかくも特別なものにしているのだ。
 これらの芸術家達は、(このことを哲学者の中にはしぶしぶとしか認めない者がいるだろうが、)愛には、この世界の中で「寛げる」気持ちを超えるものがある、ということを知っていたのだ。」(I)

 「メイは、「過去数百年以上にわたる、性と結婚の大いなる解放が、愛の蘇り(reinvention)ではなく、愛の硬直化(ossification)をしばしば伴ったこと」、そして人間の愛がいまや「かつては聖なる愛のみが可能であると考えられていたもの・・我々にとっての意味と幸福の究極の源泉、かつ苦悩と落胆を克服する力・・を達成する広範な任務を課せられたことが我々に問題を抱えさせた、と主張する。
 愛に対するこのような誇張された希望は、我々に失敗を運命づけたとしか形容のしようがない、と。」(G)

 「メイにとって、愛とは、人に自分が真の(real)正統な(legitimate)、そして存続可能な(sustainable)存在であるとの感覚を与える(或いは奪う(undermine))ところの、「存在論的根付」への欲望(desire)なのだ。・・・
 この世界の中に置かれることへの欲望としてメイによって理解された愛は、愛の対象へ、及び自分を超えるものへ、という、「二重の方向性(double orientation)」を持つべく運命づけられている。
 このような見解は、メイが強調するように、プラトン、アウグスティヌス、そしてフロイトの諸著作を援用した(draw on)ものだ。・・・
 良く愛することは・・・勤勉、忍耐強い修養(cultivation)、及び愛する相手の現実的理解(apprehension)に立脚しなければならないのだ。」(D)

 「メイは、愛が無償たりうるとの観念を放逐する。
 そうではなく、愛は、たった一つの条件・・自分が愛する相手が、自分がこの世界で寛げる気持ちになることを助けてあげるという約束を維持(hold)してくれさえすれば、<人は、後は>好きなだけ無償たりうるのだ。
 <しかし、>この約束が破られたら(go)、<その瞬間に、>愛は死ぬのだ。・・・
 愛は、エロス(Eros)・・存在論的に根付かせてくれる相手(人)への(for)欲望・・として始まり、うまく行けば、アガペー(agape)・・相手(人)への(to)至福の服従(blissful submission)・・へと上昇(ascend)し、最終的にフィリア(philia)・・相手(人)との(with)緊密にして相互的な同一化(identification)・・を達成する。
 <この一文の中に出てくる、>「for」、「to」、そして「with」という接続詞それ自体が、我々の大部分が希求する軌跡<がいかなるものか>を示唆している。」(E)

→まだ、シリーズの、或いはまた「メイが提唱する「愛」の概念」の途中なのですが、このあたり、特に分かりにくいのではありませんか?
 愛(love)という概念については、一、性愛の対象たる人に対するものと、二、畏敬の対象たる至高の存在に対するもの、の二つの対蹠的な意味があり、その他のものに対する愛(love)はこの二つの中間に位置する、という観念を欧米人は共有しています。
 その上で、彼らは、霊肉二分論に立って、一については生物としての己、二についてはキリスト教徒としての己、がそれぞれ十分理解している、という思いこみも共有しています。
 この本の著者たるメイも、また、メイの本の書評子達もそうです。
 つまり、二重性のあるloveという概念に拘束されている点、及び、二つのloveがそれぞれいかなるものであるかについて自分は客観的に理解していると思い込みつつ、その実、(これはある程度避けられないことですが、)二つのloveのどちらについてもその主観的理解内容が人によって微妙に食い違っているように思われること、が、彼らの議論を我々日本人にとって分かりにくいものにしている、というのが私の見解なのです。
 日本人の場合、明治期に、loveに愛という漢字をあてることにしたわけですが、一についてはその観念が一応定着したけれど、二については、一神教やプラトン主義の伝統がないため、その観念はちんぷんかんぷんのままなのですからね。
 というわけで、このシリーズの冒頭で私が申し上げたことが何となくお分かりいただけたのではないでしょうか。(太田)

(続く)