太田述正コラム#6066(2013.3.5)
<米国の経済風土(その2)>(2013.6.20公開)

 「プラサドは、<欧州と米国>の違いのよってきたるゆえんを、デフレの諸発作、及びそれと並行した巨大産業会社の成長に導いたところの、19世紀末と20世紀初における農業の過剰生産に求める。
 これが、ポピュリスト<(注1)>やその後継者をして、より逆心的だがより効果的である消費諸税ではなく、規制と累進所得税制度の擁護者たらしめた。

 (注1)Populist=People's Partyとは、「低い農産物価格に反応した<ところの、>・・・<米>国南部(特にノースカロライナ州、アラバマ州、テキサス州)の貧しい白人綿花農家や、<米>国中西部の平原にある州(特にカンザス州とネブラスカ州)の追いつめられていた小麦農家などを支持基盤とし、農本主義と、銀行、鉄道、エリートに対する敵意という急進的な運動形態を採<り、>・・・1891年に設立され<た党である>。・・・新しい政党を創ろうという動機は、二大政党である民主党と共和党が、小農の必要とする事柄には敵対的な銀行家、土地所有者、エリートに支配されているという信念から生まれてきた。・・・<その>党綱領は、国定銀行の廃止、累進的な所得税の導入、<米>上院議員の直接選挙、公共事業の改革、1日8時間労働、および鉄道、電信、電話の連邦政府による規制を要求していた。・・・ポピュリストは禁酒党に追随して女性の支援を積極的に取り込んだ<が>・・・人民の党の著名指導者<に>は・・・白人至上主義<者が少なくなかった。>・・・1896年までに、民主党が国政レベルで人民の党の政策の多くを採用するようになり、・・・<同>年には民主党が人民の党の大統領候補者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを公認した<が、この頃を頂点として、>・・・人民の党は・・・衰退を始めた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%9A_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB)

 ウィリアム・ジェニングス・ブライアン(William Jennings Bryan)<(注2)>からヒューイ・ロング(Huey Long)<(注3)>、そしてフランクリン・ローズベルトに至る、1890年代から1930年代の間の米国での改革の路線は、信用貸しの大いなる大衆化(democratize)の物語であり、その結果、20世紀央における米国の成長は、プラサドが呼ぶところの「担保ケインズ主義」によって推進されることになった。

 (注2)[1860〜1925年。イリノイ単科大学、及び現在のノースウェスタン大学ロースクール卒。]「<彼は、>大統領選へ3回出馬したがすべて敗北した。・・・1913年にウッドロー・ウィルソン大統領により国務長官に任命された。独占資本主義に対する彼の社会改革案のいくつか(所得税法(累進課税採用)・上院議員の直接選挙制・婦人参政権・禁酒法・選挙資金公表義務法など)はウィルソン大統領の下で実現された<が、>・・・第一次世界大戦中の1915年に・・・対独方針について、大統領と見解を異にしたため辞任した。・・・平和主義者、禁酒法支持者であると共に、<進化論>反対者」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Jennings_Bryan ([]内)
 (注3)1893〜1935年。「[二つのロースクールに立て続けに在籍したが卒業することなく司法試験に合格。]民主党所属で・・・急進的なポピュリズムで有名・・・。1928年から1932年までルイジアナ州知事を務め、1932年から1935年まで上院議員・・・、世界恐慌のために引き起こされた犯罪と貧困を抑制するために、「富の共有運動」("Share Our Wealth")と呼ばれる、所得再分配を評価する運動を作りあげた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0
 徹底した孤立主義者であり、米西戦争も第一次世界大戦への参戦も大きな誤りであったと主張した。1936年の大統領選に(再選を迎える)ローズベルトと同じ民主党において対抗馬として立候補することを目論んでいたが、1935年に暗殺された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Huey_Long ([]内も)

 <何人かの歴史学者達は、>フランクリン・ローズベルトからリチャード・ニクソンにかけての米国の政策決定者達は成長を促進し生活水準を上げるために大衆の購買力と消費を増大させることに専念した、と主張してきた。
 連邦住宅から大学奨学金諸制度、更には割賦販売やクレジットカードといった民間部門での諸革新に至るところの、信用貸しの容易化(easy credit)が米国の繁栄に果たした役割についても、よく知られているところだ。
 プラサドの業績は、これらの主張を一層深化させた点にある。
 第一に、彼女は、食品安全から銀行まで、消費者を守り消費を育むために、米国は他の諸国よりもはるかに市場を規制してきたことを説得力をもって示した。
 第二に、彼女は、米国政府が、自宅所有、大学<進学>、その他の消費のための個人的借金を容易にすべく、連邦住宅庁による少額頭金と長期担保<付債務>の制度化から、担保<付債務>の利子を(、それに加えて、暫時、他の型の利子も)、課税<所得>から控除できるようにした租税政策に至る、様々な措置を講じてきた、と唱える。
 第三に、彼女は、民主党員達と農業州の共和党員達との間の政治的同盟が、1920年代と30年代において、消費を阻害したであろうところの全国的消費税ではなく、累進所得税を発展させることにつながった、と述べる。
 プラサドの<語る>歴史は、ニューディール初期から1970年代へと飛ぶ。
 1970年代には、経済の停滞が、共和党と民主党双方において、信用貸しがなお一層確保され易いようにすべく、金融の規制緩和を行わせしめた。
 ここに至ると、我々は、米国人が借金をし過ぎて投機的バブルと2008年の金融炉心溶融が導かれた、というお馴染みの話に辿りつく。」(B)

(続く)