太田述正コラム#6046(2013.2.23)
<愛について(その3)>(2013.6.10公開)

 「ニーチェが、神の死を宣言した時、彼は、人間愛が神にとって代わった神性(divinity)になったことを認識しなかった。
 <実際には、>神は死んだ、<しかし、>神よ万歳だ<ったというのに・・>。」(B)

 「神が死んだ時、すなわち、18世紀と19世紀の欧米の知識人達や芸術家達が、自ら、彼らの祖先のキリスト教ないしはキリスト教的神格(deity)を信じることができなくなったことに気付き始めた時、自分以外の特定の人に対する無私の愛において、それ以前には神の愛と関連付けられてきていたところの、気持ちの絶対的な激しさ、道徳的再生(regeneration)の能力(capacity)、そして自分自身の不死の確信、と同じものを見出すことができる、という観念が確立したのだ。」(F)

 「その挑発的な新著・・・の中で、サイモン・メイは、ニーチェが神の死を宣言したのは半分しか正しくなかった、と主張する。
 神は死んではいなかった、と・・・メイは記す。・・・
 合理主義(rationalism)、共産主義、そしてナショナリズムは<神にとって代わることに>失敗したけれど、愛は<それに>成功した。
 実際、愛は、人間が現在しがみつくところの、唯一の避けられない、かつ普遍的な真実となったのだ。・・・
 <そこに至った道筋はこうだ。>
 聖ヨハネの言葉は、「神は愛であり、愛のうちに生きる(abide in)者は神のうちに生きるのであり、神は彼らのうちに生きるのだ」というものだった。・・・
 メイは、やがて、聖ヨハネの「神は愛である」が現在の「愛は神である」という呪文(mantra)へと変身(morph)した、と記す。
 つまり、最初は、欧米では、神を至高の存在として崇拝し、愛したのであって、人間の愛は、この神聖な愛の色褪せた影に過ぎなかった。
 しかし、啓蒙主義と浪漫主義の到来とともに、個人が崇拝と「愛の至高の対象」へと上昇したのだ。
 <これは、>個人は、「愛の至高の主体」にもなった<ことを意味する>。
 愛の歴史とは、メイの呈示するように、「神を演じる(play)」ところの、人間の希求の歴史なのだ。
 これが、今、欧米で、愛が神のごとき特徴を持つ言葉群によって定義されている理由なのだ。
 近代における愛とは何か?
 愛は、無条件で永遠で無私である、というわけだ。・・・
 人間をしてこのような形で愛することができると考えさせるに至ったところの<人間の>驕りは、離婚といった不幸な諸結果をもたらした。
 大部分の夫婦は、彼らの愛が聖なる愛同様、永遠で不変(constant)なものであろうと思い込んでいる。
 だから、彼らの愛が満ちたり引いたりすると・・人間の愛とはそういうものだが・・彼らは、それはそもそも愛ではなかった<からこそ「引いたり」するのだ、>と思い込んでしまうのだ。」(I)

 「愛が無条件なものであるという神話は、宗教の没落に由来する。
 例えば、キリスト教では、神のみが無条件で愛するのであって、罪人たる人間は、無条件の愛に近いものに到達しようとするのなら、それには神の恩寵(grace)が必要である、と教える。
 18世紀の啓蒙主義の後、無条件で愛する聖なる能力は、人間の属性となり、話の後の半分であるところの、「そのためには我々は神の恩寵が必要である」、は脇に置かれることとなった。・・・
 もう一つ、時と共に、愛についての観念は、真の愛は永久的なもの(everlasting)でなければならない、というものへと変わった。
 しかし、愛が終わった時、それは愛が真実でなかったことを意味しない。
 それは、通常、敵意(enmity)によってではなく、仲間付き合い(companionship)、習慣、ないしは慈悲(benevolence)によって置き換えられる。
 よく用いられる(get tossed around)婉曲話法は、我々は誰かを「違った形で」愛するようになったというものだ。
 しかし、しばしば、これは正確ではない。
 実際には、我々は、<(かつては真実の愛であったのだけれど、今や、)>誰々を愛することを止めた、というのが正確なところなのだ。」(A)

 「急速に世俗化しつつある20世紀の間に、(これは、1960年代中に、<男女関係についてのそれまでの>慣行(convention)への叛乱が起こり、また、効果的な受胎調節<が可能となったこと>によって加速された過程だったが、)離婚と婚姻外のセックスが受け容れられるようになるにつれて、かつては髪をふり乱した諸天才の領域のものであったところの、全身全霊の人間の愛の浪漫的な擁護が民主化され<てみんなのものとなっ>た。
 今日では、誰もが、自分の、(メイの言葉によるところの、)「恒久的で(enduring)、無条件で、無私な」愛を捧げる誰かを探していて、<探すのに成功した暁には、>愛情の対象として選ばれた相手からそれと同じものを自分に返してもらうことを期待しているように見える。
 しかし、自分によって選ばれるべき者が存在しない、或いは探し出した相手に余りにも人間的な欠点がある、ということが分かるや、<その相手と>離婚したり、別れたり、或いは惨めな怒りにかられたりするかもしれないが、それでも、通常、<諦めることなく、>この探求は引き続き行われて行くことになる。」(F)

(続く)